牧師コラム 『みことばの約束に固く立つ』 2019年5月5日

牧師 高橋勝義

イエス様は、エルサレムの美しい神殿について、「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます」と神殿の破壊を預言しながら、世の終わりについて語られました。
すると、弟子たちは、それはいつ起こるのか、どんな前兆があるのか、と尋ねました。主は、御自身の名を名のる偽キリストが大勢現れること、戦争や暴動が起き、民族は民族に国は国に敵対して立ち上がること、大きな地震、飢饉や疫病が起こること、そして、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れるが、惑わされないように気をつけなさいと命じられました。(ルカ21:8~11)
どのような苦しいことに出会おうとも、神様は私たちを守ってくださるお方です。
そして、「あなたがたの髪の毛一本も失われることはない(ルカ21:18)」から、忍耐を持って歩み、自分のいのちを勝ち取るように勧めます。

大切なことは、いつ終わりの時がきても良い『備えをしておくこと』なのです。

その備えとは、私たちの罪の身代わりに十字架で死んで下さったイエス様を信じ、神のこどもになることです。
そして、みことばの約束に固く立ち、普段通りの歩みをすることです。
喜びをもって「人の子(イエス様)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る(ルカ21:27)」ことのできる人は、何と幸いないことでしょう。
私たちは、インターネットで世界中のあらゆる情報を、瞬時に手にする時代に生きていますが、イエス様が語られたことは必ず起こるのです。
ですから、動揺することなく、私たちが持っているまことの希望(天国)を人々に証ししなければならないのです。
神様の願いは、すべての人が救われることです。

牧師コラム 『神への信頼』 2019年4月28日

牧師 高橋勝義

イエス様が、神殿の献金箱に、献金を投げ入れる人々の様子を見ておられた時のことです。ある貧しいやもめが、レプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(ルカ21:3,4)」と言いました。レプタは、貨幣の内で最小単位の銅貨です。しかも、「持っていた生きる手立てのすべて」とは、生活費全部ということになります。
金持ちの献金からすれば、やもめの献金は、はるかに少ない額ですが、やもめの事情を考えれば大金です。人がこの様な行動を取る時とは、将来に全く希望が見出せないので、この世を去ろうと考えていることが多いのではないでしょうか?
しかし、貧しいやもめには、そんな様子は全く見られません。

イエス様がお金持ちの献金について「あり余る中から献金として投げ入れた」と指摘されたのは、彼らが信頼しているのは、神ではなく、お金であったからです。
やもめの献金への姿勢には、これまでも同じようなことがあっただろうと思われます。その度ごとに、神に信頼する歩みを選び取り、日々の歩みが守られたことを経験してきているので、いつもの通りに、喜んで神に献金をお献げしたのです。
「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。(ヘブル13:5)」
あなたの主人は、生きておられる神ですか、それとも、富ですか?

牧師コラム 『イエス・キリストのよみがえり』 2019年4月21日

牧師 高橋勝義

60歳の誕生日を「暦が一巡するまで長生きした」、そして「もう一度生まれたときに戻る」ということで、お祝いするのが「還暦祝い」です。

本当に、新しく生まれ変われれば、いいのですが…。

イエス・キリストは、約2000年前、十字架の上で死なれました。
この裁判を行ったピラトは、イエス・キリストを「死刑だ」と訴える民衆に向かって、「彼には、死に値する罪が何も見つからない(マタイ23:22)」と宣言しています。むしろ、「ねたみ」からイエス・キリストを訴えていることを知っていました。
イエス・キリストは「無実」であるにもかかわらず、十字架で処刑されたのです。それは、世界中の人々の罪を身代わりに負い、その贖いのためでした。
しかし、聖書は、キリストは三日目に死からよみがえったと語り、多くの人々が、よみがえったイエス・キリストを目撃しています。
人間の理性と常識では、理解できないことですが、天地万物を創造された神には、不可能なことは何一つありません。
十字架刑を受ける前、イエス・キリストは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と約束して下さいました。
その約束どおり、私たちのを赦し、新しいいのちに生きる者にするために、イエス・キリストはからよみがえられたのです。
では、どうすれば、新しく生まれ変わる「新しいいのち」を手に入れられるのか?
それは『イエス・キリストが自分ののために死なれたことを信じること』です。
私たちも、イエス・キリストの復活を感謝し、心からの礼拝をささげましょう!

牧師コラム 『おおいなる勘違い』 2019年4月14日

牧師 高橋勝義

次にイエス様の所にやって来たのは、復活を否定するサドカイ人たちでした。
ユダヤ人の中にも、復活を信じる人々と信じない人々がいたのです。
彼らは、イエス様に「七人の兄弟がいて、長男が妻を迎え、子がないままに死んでしまった。モーセの教えに従って、弟たちは兄嫁を妻とするが、子がないままに死んでしまった。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」(ルカ20:27~33)と質問してきたのです。イエス様は、彼らに「『天国へ入るのにふさわしいと認められた人』が入るのです。天国は、めとることも嫁ぐこともなく、死ぬことはなく、復活の子として神の子なのです。」と答えられました(ルカ20:35,36)。
彼らは、この世の歩みと天国の歩みが全く同じであるかのように考えていたために、おおいなる勘違いをしていたのです。
それに、最も重要なことを見落としています。
それは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、神にとっては、すべての者が生きている」(ルカ20:38)です。このことをイエス様は教えられたのです。
天国は、死んだ者の場所ではなく、生きている者の場所です。

では、どうすれば、『天国へ入るのにふさわしいと認められる人』になれるのか?
それは、行いによるのではなく、イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死なれたこと、そして三日目によみがえられたことを信じることです。
そうすれば、復活するのにふさわしい者と認められ、約束として、永遠のいのちが与えられているので、天国に入ることが出来るのです。

2019年3月14日 クラフト教室・支援報告 第186回

・日 時:3月14日
・参加者:10名
・奉仕者:仙台教会6名 石巻教会1名

3月のクラフト教室は、「ワイヤーポーチ」を作りました。苺とグリーンの生地が苺畑を思わせる可愛らしいポーチです。口金の芯に専用のワイヤーを入れる自立型となっています。もう少しで完成でしたが、仕上げは来月ということになりました。
縫いながらのお話の中心は、やはりちょうど8年前の3・11の震災当日のことでした。家も車も何もかも大津波に流されて行く様子、そして避難所での生活を、昨日のことのように、淡々と語ってくださいます。今、8年の歳月が流れ、ようやく平穏な日常が戻って来たところです。お話しくださることによって、少しでも、心の重荷を降ろしてくださったらと祈りつつ聞かせて頂きました。
チャペルタイムでは、森永製菓の創業者「森永太一郎」についてお話しました。寂しい幼少期を過ごした彼でしたが、19歳の時に一流の商人になろうと渡米しました。しかし、うまく行かず、すべてを失って失意のうちに公園のベンチに一人座っていた時、見ず知らずの婦人が差し出した1粒のキャンデーが彼の人生を変えたのでした。その美味しさに魅了された彼は菓子職人になろうと決心しました。また、差別に会いながら孤独の中で一人修行をする彼を支えたのはクリスチャンの老夫婦でした。太一郎は間もなく教会に集うようになり洗礼を受けました。そして、いくつもの挫折を通りながらも「森永製菓株式会社」を設立しました。すべてを失った時に出会ったキャンデーと聖書。それが彼の人生を変えて行ったのです。神様は愛するものを決して見捨てない、見放さない・・・クラフト教室に集まってくださる方々も人生の舵を大きく切ってイエス様のもとに帰って頂きたいと切に願いました。
厳しかった冬の間も守られてようやく春がやって来ました。これまでこの働きのために、いつもお祈りくださりご支援くださる兄姉に心から感謝致します。集われている方々の救いのために、準備に当たる奉仕者のために引き続きお祈りを頂けましたら幸いです。感謝しつつ。

仙台福音自由教会
吉田真知子

  

牧師コラム 『神の民』 2019年4月7日

牧師 高橋勝義

「策士策に溺れる」とは、策略のうまい人は、策略に頼りすぎて、物事の対局を見失い、かえって失敗するという意味です。

当時、強大なローマ帝国に支配されていたイスラエル国の指導者である祭司長、律法学者たちは、ロ-マ総督にイエス様を捕らえさせようと罠を仕掛けます。
イエス様に対し「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか(ルカ20:22)」と質問します。質問と言うより策略です。
「カエサルに税金を納めなさい」と答えれば、神の教えに反している、祖国愛がないと言って非難し、逆に、「カエサルに税金を納めなくてもいい」と答えれば、ローマ帝国に対し謀反を企てていると訴えられます。
しかし、イエス様は彼らの策略を見抜いて、「デナリ銀貨にはだれの肖像と銘があるのか」と聞き返します。「カエサルです」と答えた彼らに「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と返答、彼らは黙るしかありませんでした。

ところで、イエス様を自分の罪からの救い主と信じるすべての人は、神の民とされます。ですから、この世の国籍と、天国の国籍の二つを持つことになります。
国籍を持つということは、国が責任をもって安全を守ってくれる、と同時に国民としての責任を果す義務が要求されます。
では、神の民の責任を果たすとは、どのように歩むことなのでしょうか?
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい(ローマ12:11)」
この世の価値観に流されず、神様を第一にし、御言葉に従うのが神の民です。

牧師コラム 『捨てた石が要の石に』 2019年3月31日

 牧師 高橋勝義

「しんがり」は、軍隊にはとても重要な部隊です。なぜなら、退却する軍隊の最後尾で、敵の追撃を阻止するからです。その任務には、捨て石になる覚悟が必要です。

イエス様は、人々にたとえを話されました(ルカ20:9~16)。
ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸します。収穫の時になり収穫の一部を納めさせるために、しもべたちを何回も遣わしたのですが、農夫たちは彼らを打ちたたき、何も持たせないで帰らせたのです。最後に、息子なら、きっと敬ってくれると思い、大切な息子を送ったのですが、殺されてしまった、というのです。
農夫たちとはイスラエルの指導者たち、愛する息子とは、イエス様のことです。
イスラエル民族は、神の国を待ち望む人々の模範となるために神様に選ばれた民族でしたが、その使命を逸脱し、救い主イエス・キリストを十字架刑によって殺してしまいました。では、イエス様の死は無駄死にだったのでしょうか?
決して、そんなことはありません。それどころか、希望を与えるものなのです。
それは指導者たちが無用のものとして「捨てた石」であるイエス・キリストの十字架は、私たちのすべての罪の身代わりであったこと、さらに、三日後によみがえられた復活の事実は、滅びからいのちに移される希望の「要の石」であるからです。

『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった(詩篇118篇23節)』

扇の骨を止める要のように、復活のイエス様と共に歩む人生は、人生を揺り動かすどんな出来事からも、あなたを守る「要」になります。あなたの人生に、イエス・キリストを「要」として迎え入れ、新しい、希望の歩みを始めませんか?

牧師コラム 『ヨセフ物語(後半)』 2019年3月24日

牧師 栗原延元

波瀾万丈のヨセフの生涯のクライマックスは、ヨセフと兄たちの再会の場面です。〈ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟ヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」〉(創世記45章4~5節)
聖書の巻頭の書である創世記の最終章50章には、〈ヨセフは彼らに言った。「恐がることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。〉(創世記50章19~20節)
このヨセフ物語は、新約聖書のイエス・キリストの福音に通じています。ヨセフは、自分に悪をたくらんだ兄たちを赦しましたが、父なる神は、イエス・キリストを十字架につけて殺した人類の罪を完全に赦しておられるのです。それはイエス・キリストの復活の事実が語っている福音なのです。

アーメン

牧師コラム 『権 威』 2019年3月17日

 牧師 高橋勝義

ノーベル賞は、1901年から始まった世界的な「権威」ある賞です。
ですから、受賞した人の発言や書物は、注目され、大きな影響力を持ちます
イスラエルでは神について教える時、祭司長、律法学者、長老たちは、先祖たちの教えによって、それを絶対的な権威あるものとして、人々に教えていました。
ところが、人々は、イエス様が神について語る教えに驚きました。
なぜなら、イエス様は「律法学者たちのようにではなく、御自身が権威ある者として教えたからです。(マルコ1:22)」
民の指導者たちはイエス様に、「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」と質問しました。
イエス様も彼らに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか」と質問しました。それに答えたなら自分も答えるというのです。
彼らは、互いに論じ合いますが、ついには人々の反応を恐れて「どこから来たのか知りません」と答えました。
イエス様も「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と答えました。(ルカ20:1~8)
イエス様は神のお姿を捨てて、人となってこの世に来られたまことの神ですから、「先祖の教え」という借りものに依存する必要は全くなかったのです。
さらに、神の権威によって人を支配するのではなく、友(私たち)のために十字架でご自分のいのちを捨てる、大きな愛を持っておられる権威者なのです(ヨハネ15:13)。