2018年11月15日 クラフト教室・支援報告 第183回

〇日 時:2018年11月15日(木)
〇参加者:10名
〇奉仕者:仙台教会5名、石巻教会2名
〇場 所:石巻福音自由教会

 11月のクラフト教室は、「ピンクッション」を作りました。エンジの生地に小花、レースの縁取りが可愛く、小物入れにもなっているものです。まずアイロンで芯を貼り外側を縫い、プラスチックの芯を入れて円柱型の入れ物を作りました。途中、ボンドで貼ったり、両面テープで貼ったり、まるで夏休みの宿題の工作をしているような楽しさがありました。細かい20コくらいにもなるパーツが、全て準備されていますので、今日も作業がスムーズに進んで行きました。参加者の皆さんも「ここまで準備するのが大変なのよね。ありがたいわ。」などとお話もはずんで、2時間半ほどでほぼ出来上がりました。
 チャペルタイムでは、「聖書を読んだサムライたち」のパート2、NHKの大河ドラマで人気の「西郷隆盛」(せごどん)についてのDVDを見た後、お話しを聞いて頂きました。西郷さんが説いた「敬天愛人」という言葉は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という聖書から取られたものです。自分に敵対する者を赦すということを貫いた西郷さん。公にできなかったようですが、教会に集い、聖書を学び、洗礼も受けられていたそうです。イエス様の教えをもとに時代を生き、歴史を動かした志士たち。彼らの生き方に大きな影響を与えたのは、意外にも聖書だったということです。歴史上、よく知られている人物が聖書の影響を受けて、この教えを日本の近代化の大きな指針としていったということで、神の言葉、聖書に更に関心を持っていただけたらと願っています。
 石巻は特産の牡蠣の出荷の季節に入ってきました。ご婦人の方々も牡蠣剥きの仕事が忙しくなってきました。健康と日々の歩みが守られますようにお祈りしてお別れしました。
 いつもこの働きのためにお祈りとご支援をいただき心から感謝致します。
 引き続き、参加者の方々のために、クラフトを準備する姉妹方の奉仕のためにお祈り頂けましたら幸いです。     
                               吉田真知子

         

牧師コラム 『越えられない大きな淵』 2018年12月9日

牧師 高橋勝義

 金銭を好むパリサイ人に、イエス様はたとえ話しをされます。
『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前に、できものだらけの貧しいラザロという男がいた。しばらくして、ラザロは死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムの懐にいるラザロが見えたので、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください」と懇願した。しかし、アブラハムは「私たちとおまえたちの間には大きな淵があるので、渡ろうとしても渡れず、越えて来ることもできない」と告げる。金持ちは、残してきた兄弟五人を思い、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、「彼らに警告してください。」と懇願しますが、アブラハムは「彼らはモーセと預言者の言うことを聞くがよい。」と答えます。なおも、金持ちは「死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」と食い下がるのですが、アブラハムの答えは「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」でした。(ルカ16:1431)
 聖書は、「人間は一度死ぬここと死後さばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と語ります。
 死後、私たちを待ち受ける絶望と苦しみをイエス・キリストは十字架の上で代わりに受けて下さいました。
 誰でも、イエス・キリストをからの救い主として信じる時、死からいのちに移され、絶望と苦しみから救われるのです。
 越えられない大きな淵を越えさせて下さるお方が、イエス・キリストなのです。

牧師コラム 『忠 実』 2018年12月2日

牧師 高橋勝義

 「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があります。何ら努力もしないで、良い結果を期待しても得られないという意味です。
 イエス様は、一人の管理人のたとえを話されました。
 この管理人は主人の財産を無駄遣いしている、と訴えられ仕事を失う危機に直面します。彼は「土を掘る力もないし、物乞いをするのは恥ずかしい」ので、主人の債務者一人ひとりを呼び、その債務を軽くしてやり、管理の仕事を辞めさせられても、恩を売っておいた人々が自分を家に迎え入れてくれるようにした、というのです。
 イエス様は、この管理人の不正行為そのものを奨励しているのではなく、危機に直面した時、尚も不正な富に頼り、知恵を絞って解決策を見出し、将来への備えをする抜け目のない、ずる賢い行為をほめたのです。
 なぜ、人は、富に執着するのか?それは、富がなければ、幸せになれないと信じているからです。だから、あらゆる知恵を用いて、富を得ようとしています。
 イエス様は、『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。(ルカ16:13)』と語られます。
 あなたの心はどこに向いているのか、何を頼りにするのか、また、将来への備えが出来ているのか、とイエス様は問うているのです。
 「二兎追う者は一兎をも得ず」のたとえの如く、私たちを愛しておられる神に従うのか、それとも消えてなくなる富を選ぶのか…。
 あなたはどちらでしょうか。

牧師コラム 『石の枕に』 2018年11月25日

 牧師 栗原延元

 前回(1021)は、アブラハムの息子イサクの結婚について学びました。今回はイサクの息子ヤコブの生涯を学びます。
 ヤコブは双子の弟として、生まれます。生まれてくるとき、兄(エサウ)のかかとをつかんでいたので、「押しのける者」という名(ヤコブ)とつけられました。
 出産のときからそれに先立ち、母の胎内にいるとき、すでにこの二人はぶつかり合っていたのです。ヤコブと兄エサウの格闘は創世記の物語の中で興味をそそるものです。
 今日は、兄エサウの殺意を逃れて、(何故エサウが弟ヤコブを殺そうとしたかは創世記27章が詳しく描いています)母リベカの故郷(カラン)に旅立つところを学びます。「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。」(創世記2811)石を枕にして野宿するとは、なんと心細く、寂しいことでしょう。その夜、ヤコブは夢を見るのです。天からはしごが地に向けて立てられ神の使いたちが、そのはしごを上り下りし、主の使いがヤコブのかたわらに立つのです。主なる神と出会うことによって、ヤコブは、苦難を乗りこえて行くのです。

牧師コラム 『天の父なる神の愛』 2018年11月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス様は『迷子になった一匹の羊』『紛失した銀貨』のたとえから、まことの神は失われた者を見つけるまで捜し続ける愛のお方である、ことを私たちに語りました。
 それに続く三つ目のたとえは、本日の聖書箇所『失われた息子のたとえ』です。
 父に財産を分けて欲しいと願った弟息子は、遠い国に旅立ち、財産を湯水のように使い果たしました。そして、激し飢饉が起こった時、彼を助ける人は誰もいませんでした。空腹で豚の餌で腹を満たしたいほどだった彼は我に返り、「罪を犯していることに気付き」、父のもとへ向かったのです。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、駆け寄り彼の首を抱き、口づけし、『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と言って祝宴を開いたのです。
 どこにでもあるような話ですが、これは、神(創造主)と私たちの関係について語っています。
 私たちは、私たちを造られた神から離れ、背を向け、それぞれ自分勝手な道に向かっていき、その歩みは迷子の羊のようにさまよっているのです。
 「我に返った」弟は、そこが自分のいる場所ではないことを悟ったのです。
 父なる神は、私たちが神のところに戻るのを妨げている罪をすべてイエス・キリストに負わせ、十字架の上で処罰することによって、ご自身との関係を修復し、私たちを滅びから救う道を備えられたのです。
 あなたが、十字架を仰ぎ見て、神の方に向きを変えるならば、今のあなたがどんな状態であろうと父なる神はそのまま受け入れ、赦し、愛の御腕の中にあなたを包んで下さるのです。
 立ち止まって、自分の人生を見つめなおしてみませんか?

牧師コラム 『天で起こる大いなる喜び』 2018年11月11日

牧師 高橋勝義     

 「喜怒哀楽」と言う言葉があるように、人は、様々な出来事に会うと、喜び・怒り・悲しみ・楽しみの四つの感情が湧き出てきます。
 イエス・キリストは、『あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカの福音書157)』と語りました。
 それと同じようにとは、「羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたので、その人は九十九匹を野に残し、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩き、見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、人々を呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」というたとえ話のことです。
 いなくなった一匹の羊とは、私たちのことです。
 では、なぜ、いなくなったのか?
 それは、私たちを造られた神のところから出て行ってしまったからです。
 まことの神は、いなくなった一匹の羊を見つけ出すまで、捜し続けて下さるお方なのですが、私たちは「まことの神の声」を聞こうとしないのです。
 時満ちて、神は私たちに対するご自身の愛を知らせるために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、神に従わない私たちの罪を代わりに負わせ、十字架の上で処罰したのです。
 十字架を仰ぎ見て、自分の罪のために、イエス・キリストが死んで下さったことを認め、神に立ち返る(悔い改める)と、天では大きな喜びが沸き上がるのです。
 それは、まことの神のもとに戻って来た喜びの大歓声です。
 あなたは、かけがえのない存在として神に愛されているのです。

牧師コラム 『弟子の道』 2018年11月4日

 牧師 高橋勝義     

 学問や技能などを伝授する側が「師」、伝授される側が「弟子」です。
 イエス・キリストは、『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書1426,27)』と語りました。
 イエス・キリストは、大切なものであっても手放さなければ、弟子になれないと言われたのです。
 大切なものを手放しても惜しくないものとは、何でしょうか?
 神のひとり子イエス・キリストは、人を滅びに向かわせている罪があること、その滅びから救うために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれました。
 私たちが、この事実を受け取り自らの罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じると、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われるのです。
 この救いの恵みを頂いたすべての者に、キリストは、ご自分がいのちを惜しまずに献げたように、本気でわたしに従う、弟子になるのかと問うているのです。
 なぜなら、弟子に、この素晴らしい救いの福音を託そうとしているからです。
 弟子が人々に伝授することは、この救いの福音を宣べ伝えることです。
 また、弟子の道は、自分の力で努力して頑張るのではなく、むしろ、自分の無力さを知り、その無力さを認め、神の力に頼って生きることなのです。
 キリストを信じるすべて者に、神は、助け主(聖霊なる神)を信じる者の内に住まわせて、弟子の道を歩めるように励まし、助け、導いて下さるのです。

牧師コラム 『ここに愛がある』 2018年10月28日

 牧師 高橋勝義     

 S・ムーニーハムは「口先だけで『愛している』と言われても簡単に無視できるけれど、態度で示されると、ついほだされてしまう。」と語りました。
 人は、だれでも「愛」を求めていますが、「愛」は見えません。それ故、自分の愛を相手に知ってもらうために、「プレゼント」というかたちで示します。
 聖書は『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ410)』と語っています。あまり馴染みのない「なだめのささげ物」という言葉が出てきます。国語辞書を開いてみると「怒りや不満などをやわらげ静める。事を荒だてないようにとりなす。」と記されています。
 ここで重要なことは、誰をどのような方法で「なだめるのか」です。
 人は、自分たちを造られた神のもとから飛び出し、背を向け、自分勝手な歩みを続けています。これが罪です。ですから、人が、神をなだめることは絶対に出来ません。
 そこで、神は御子、即ち神の愛する一人子であるイエス・キリストを「神へのなだめのささげ物」とするためにこの世に遣わされたのです。そして、イエス・キリストを十字架の上で私たちの罪の身代わりに処罰されたのです。
 まことに、イエス・キリストの十字架は、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっていることを示しているのです。
 十字架は、私たちのすべての罪を取り除くのですが、それには、罪を認め、悔い改めることが必要です。
 この神の愛を受け取り、新しい人生を目指しませんか?

牧師コラム 『アブラハムの神への祈り』 2018年10月21日

牧師 栗原延元

  「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みをほどこして下さい。」(創世記2412)。これはアブラハムのしもべの祈りです。彼はアブラハムの息子イサクの妻となる娘さんをさがしに、アブラハムの生まれ故郷に出かけました。彼が目的地に着いたのは夕暮れ時でした。女たちが町の外の井戸に水を汲みにやって来る時でした。
 その時のしもべの祈りを聖書は詳しく録しています。長い引用になりますがここに書きしるします。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記241314)
 この祈りの通りに物語は進行して行くのです。アブラハムの神への祈りは大きな祝福が伴うのです。