牧師コラム 『聖 霊』 2019年6月9日

牧師 高橋勝義

十字架で死なれたイエス・キリストは墓に葬られ、三日目によみがえられた後、四十日のあいだ弟子たちの前に現れました。そして神の国について語られたのです。
その後、天に戻られる時「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」と約束してくださいました。
また、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネ16:7,8)」とも語られました。
事実、イエス様が復活されてから50日目に、集まった人々の上に聖霊が天から下りました。その聖霊に満たされた弟子たちは、他国のいろいろなことばを話し始め、力強く、大胆に福音を語ったのです。(使徒2:3,4)
それはイエス様がローマ兵に捕らわれた時、その主を見捨てて逃げ去った同じ弟子たちでした。
その場にいた人々は、自分の国のことばで福音を聞き、心刺され、キリストの十字架は自分の罪の身代わりであると認め、悔い改め、そしてイエス様を罪からの救い主として信じたのです。

今、2000年前の十字架の出来事が自分の罪のためであることを認め、このお方を信じることが出来るのは聖霊の働きによるのです。また信じた全ての者が、新しいいのちを頂いて、この世を生き生きと歩めるのも、聖霊の力によるのです。

 十字架はあなたのためであると、聖霊はあなたの心に語りかけておられます。

牧師コラム 『イエス様のまなざし』 2019年6月1日

牧師 高橋勝義

私たちの人生に失敗はつきものです。しかし、大切なのはその後の歩みです。

イエス様は、『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける(試練)ことを願って、聞き届けられました。わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈ったので、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と、シモン・ペテロに語りました。
驚いたペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と答えるのですが、それに対して、イエス様は「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(ルカ22:34)」と言われたのです。
イエス様がサタンからの試練を許したのは、ペテロが本当の自分の姿を知ることによって、人の弱さをそのまま受け入れる者となるためだったのです。ですから、ふるいにかけられるのは、とても辛いことですが、とても貴重な経験でもあるのです。
事実、ペテロは大祭司の庭で捕らわれのイエス様を見つめていた時、3人もの人に「イエスと一緒にいた」と言われ、三度とも「知らない」と否定してしまいました。

その時、鶏が鳴き、イエス様が振り向いてペテロを見つめたのです。

ペテロは、外に出て激しく泣きました。それは自分のふがいなさと同時に、そのまなざしに「愛」を感じたからです。それは、ご自身を否定してしまったことを責めるものではなく、赦し、受け入れ、支える愛のまなざしだったからです。
その同じイエス様のまなざしが、あなたにも注がれているのです。
あなたの弱さも失敗も、ありのままを受け入れ、あなたのために祈って下さるイエス様を信じ、その愛に生きる歩みをしませんか?

牧師コラム 『誰が一番偉いか』 2019年5月26日

牧師 高橋勝義

イエス様は、十字架を前にした弟子たちとの過ぎ越しの食事の中で、ご自身を裏切る者がいることを告げられました。
驚いた弟子たちは、だれがそんなことをしようとしているのか、議論し始めるのですが、同時に「誰が一番偉いか」という議論も起こりました。(ルカ22:23,24)
いつの時代も、人々の間では、このような議論が起こるものです。
しかし、イエス様は、「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。(ルカ22:26)」と、『神様の目から見た偉い人』について語ります。
そして、身をもってそれを教えるために、本来ならば『食卓で給仕をされる人』である神の御子イエス様ご自身が、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、泥にまみれた弟子の足を洗い、腰の手ぬぐいでふかれたのです。これには、弟子たちもさすがに驚きました。師であるイエス様みずからが、弟子の足を洗うことによって、互いに仕え合うようにと模範を示されたのです。(ヨハネ13:4~15)

人は、仕えるより、仕えられることを求めるものです。

イエス様のような『仕える心』は、イエス様を救い主と信じ、その愛と赦しを味わった時に生まれます。生まれながらの私たちには、残念ながらその力がないのです。
「~して欲しい」と人に要求する者ではなく、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神の力によって、人々を愛し、赦し、喜んで仕える者にならせて頂きましょう。

誰でも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)

牧師コラム 『新しい契約』 2019年5月19日

牧師 高橋勝義

ユダヤ人にとって最も大切な「過越しの祭り」の日がきました。
この祭りは、かつて奴隷として苦しんだエジプトから、神様が救い出してくださったことを記念する祭りです。あの夜、神様の指示通り、戸口に子羊の血を塗ったユダヤの家々を神は過ぎ越し、血の塗られていないエジプト人の家の初子と家畜を神は打たれました。そして、ユダヤ人たちは、追われるようにエジプトを脱出できたのです。
さらに約束の地を目指して、荒野を旅するユダヤの民に、神様は祝福を約束する契約を交わしてくださったのです。モーセは神様のくださった契約の書(律法)を民に聞かせ、「主の言われたことはすべて行います。」と応答した彼らに、祭壇の雄牛の血を振りかけ、「主があなたがたと結ばれる契約の血である」と宣言したのです。(出エジプト24:1~8)
これが、神の民と交わされた契約(旧約)です。

過ぎ越しの祭りは十字架の前夜でした。弟子たちとの過越しの食事(最後の晩餐)でイエス・キリストは『パンを取り~「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」~「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:19,20)』と語り、パンとぶどう液を共に食したのです。
「この恵み(イエス・キリストの十字架)の故に、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。(エペソ2:8,9)」
イエス・キリストは、罪からの救い主としてご自分を信じる信仰により、あなたを全く新しい人生へと導いて下さるのです。これが神様と交わされる新しい契約です。

牧師コラム 『目を覚まして祈りなさい』 2019年5月12日

牧師 高橋勝義

イエス様は、これから起こることと、ご自分が再びこの世に来られること(再臨)を語られてから、いちじくの木のたとえを話されたのです。

「いちじくの木や、すべての木を見て、木の芽が出るのを見ると、すでに夏が近いことが分かるように、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近いことを知りなさい。~ すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたし(イエス・キリスト)のことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:29~33)」

イエス様が、再びこの世に来られるまでの間、戦争、迫害などが起こります。
また、人々の心は、日々の生活の思い煩いに悩まされながら歩んでいます。
そのため、人々は、神の国が近づいていることに気づきません。
いちじくの木のたとえから、イエス様は、突然やって来る再臨に備えるように「目を覚まして祈りなさい」と命じられたのです。

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です(詩篇119:105)」とあるように、神のことば(聖書)は私たちの進むべき道を示します。

心を定めて、イエス様を信じ、油断することなく(目を覚まして)、いつも祈りながらみことばに聞き従う歩みが、私たちを日々の思い煩いから解き放ちます。
また、世界中で起こる様々な出来事に一喜一憂せず、翻弄されず、惑わされず、これらの出来事から神の国が近づいていることを悟ることが出来るのです。
イエス様が再び来られることを心から喜んで、お迎えする備えをしましょう。

牧師コラム 『みことばの約束に固く立つ』 2019年5月5日

牧師 高橋勝義

イエス様は、エルサレムの美しい神殿について、「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます」と神殿の破壊を預言しながら、世の終わりについて語られました。
すると、弟子たちは、それはいつ起こるのか、どんな前兆があるのか、と尋ねました。主は、御自身の名を名のる偽キリストが大勢現れること、戦争や暴動が起き、民族は民族に国は国に敵対して立ち上がること、大きな地震、飢饉や疫病が起こること、そして、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れるが、惑わされないように気をつけなさいと命じられました。(ルカ21:8~11)
どのような苦しいことに出会おうとも、神様は私たちを守ってくださるお方です。
そして、「あなたがたの髪の毛一本も失われることはない(ルカ21:18)」から、忍耐を持って歩み、自分のいのちを勝ち取るように勧めます。

大切なことは、いつ終わりの時がきても良い『備えをしておくこと』なのです。

その備えとは、私たちの罪の身代わりに十字架で死んで下さったイエス様を信じ、神のこどもになることです。
そして、みことばの約束に固く立ち、普段通りの歩みをすることです。
喜びをもって「人の子(イエス様)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る(ルカ21:27)」ことのできる人は、何と幸いないことでしょう。
私たちは、インターネットで世界中のあらゆる情報を、瞬時に手にする時代に生きていますが、イエス様が語られたことは必ず起こるのです。
ですから、動揺することなく、私たちが持っているまことの希望(天国)を人々に証ししなければならないのです。
神様の願いは、すべての人が救われることです。

牧師コラム 『神への信頼』 2019年4月28日

牧師 高橋勝義

イエス様が、神殿の献金箱に、献金を投げ入れる人々の様子を見ておられた時のことです。ある貧しいやもめが、レプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(ルカ21:3,4)」と言いました。レプタは、貨幣の内で最小単位の銅貨です。しかも、「持っていた生きる手立てのすべて」とは、生活費全部ということになります。
金持ちの献金からすれば、やもめの献金は、はるかに少ない額ですが、やもめの事情を考えれば大金です。人がこの様な行動を取る時とは、将来に全く希望が見出せないので、この世を去ろうと考えていることが多いのではないでしょうか?
しかし、貧しいやもめには、そんな様子は全く見られません。

イエス様がお金持ちの献金について「あり余る中から献金として投げ入れた」と指摘されたのは、彼らが信頼しているのは、神ではなく、お金であったからです。
やもめの献金への姿勢には、これまでも同じようなことがあっただろうと思われます。その度ごとに、神に信頼する歩みを選び取り、日々の歩みが守られたことを経験してきているので、いつもの通りに、喜んで神に献金をお献げしたのです。
「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。(ヘブル13:5)」
あなたの主人は、生きておられる神ですか、それとも、富ですか?

牧師コラム 『イエス・キリストのよみがえり』 2019年4月21日

牧師 高橋勝義

60歳の誕生日を「暦が一巡するまで長生きした」、そして「もう一度生まれたときに戻る」ということで、お祝いするのが「還暦祝い」です。

本当に、新しく生まれ変われれば、いいのですが…。

イエス・キリストは、約2000年前、十字架の上で死なれました。
この裁判を行ったピラトは、イエス・キリストを「死刑だ」と訴える民衆に向かって、「彼には、死に値する罪が何も見つからない(マタイ23:22)」と宣言しています。むしろ、「ねたみ」からイエス・キリストを訴えていることを知っていました。
イエス・キリストは「無実」であるにもかかわらず、十字架で処刑されたのです。それは、世界中の人々の罪を身代わりに負い、その贖いのためでした。
しかし、聖書は、キリストは三日目に死からよみがえったと語り、多くの人々が、よみがえったイエス・キリストを目撃しています。
人間の理性と常識では、理解できないことですが、天地万物を創造された神には、不可能なことは何一つありません。
十字架刑を受ける前、イエス・キリストは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と約束して下さいました。
その約束どおり、私たちのを赦し、新しいいのちに生きる者にするために、イエス・キリストはからよみがえられたのです。
では、どうすれば、新しく生まれ変わる「新しいいのち」を手に入れられるのか?
それは『イエス・キリストが自分ののために死なれたことを信じること』です。
私たちも、イエス・キリストの復活を感謝し、心からの礼拝をささげましょう!

牧師コラム 『おおいなる勘違い』 2019年4月14日

牧師 高橋勝義

次にイエス様の所にやって来たのは、復活を否定するサドカイ人たちでした。
ユダヤ人の中にも、復活を信じる人々と信じない人々がいたのです。
彼らは、イエス様に「七人の兄弟がいて、長男が妻を迎え、子がないままに死んでしまった。モーセの教えに従って、弟たちは兄嫁を妻とするが、子がないままに死んでしまった。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」(ルカ20:27~33)と質問してきたのです。イエス様は、彼らに「『天国へ入るのにふさわしいと認められた人』が入るのです。天国は、めとることも嫁ぐこともなく、死ぬことはなく、復活の子として神の子なのです。」と答えられました(ルカ20:35,36)。
彼らは、この世の歩みと天国の歩みが全く同じであるかのように考えていたために、おおいなる勘違いをしていたのです。
それに、最も重要なことを見落としています。
それは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、神にとっては、すべての者が生きている」(ルカ20:38)です。このことをイエス様は教えられたのです。
天国は、死んだ者の場所ではなく、生きている者の場所です。

では、どうすれば、『天国へ入るのにふさわしいと認められる人』になれるのか?
それは、行いによるのではなく、イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死なれたこと、そして三日目によみがえられたことを信じることです。
そうすれば、復活するのにふさわしい者と認められ、約束として、永遠のいのちが与えられているので、天国に入ることが出来るのです。

牧師コラム 『神の民』 2019年4月7日

牧師 高橋勝義

「策士策に溺れる」とは、策略のうまい人は、策略に頼りすぎて、物事の対局を見失い、かえって失敗するという意味です。

当時、強大なローマ帝国に支配されていたイスラエル国の指導者である祭司長、律法学者たちは、ロ-マ総督にイエス様を捕らえさせようと罠を仕掛けます。
イエス様に対し「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか(ルカ20:22)」と質問します。質問と言うより策略です。
「カエサルに税金を納めなさい」と答えれば、神の教えに反している、祖国愛がないと言って非難し、逆に、「カエサルに税金を納めなくてもいい」と答えれば、ローマ帝国に対し謀反を企てていると訴えられます。
しかし、イエス様は彼らの策略を見抜いて、「デナリ銀貨にはだれの肖像と銘があるのか」と聞き返します。「カエサルです」と答えた彼らに「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と返答、彼らは黙るしかありませんでした。

ところで、イエス様を自分の罪からの救い主と信じるすべての人は、神の民とされます。ですから、この世の国籍と、天国の国籍の二つを持つことになります。
国籍を持つということは、国が責任をもって安全を守ってくれる、と同時に国民としての責任を果す義務が要求されます。
では、神の民の責任を果たすとは、どのように歩むことなのでしょうか?
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい(ローマ12:11)」
この世の価値観に流されず、神様を第一にし、御言葉に従うのが神の民です。