牧師コラム 『サラの生涯』 2018年9月23日

牧師 栗原延元   

 アブラハムの妻サラの生涯を、新約聖書のヘブル書が〈信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。〉(ヘブル111112)。さらにヘブル書は語ります。〈これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。〉(ヘブル111316)。アーメン

牧師コラム 『狭い門から入りなさい』 2018年9月16日

牧師 高橋勝義     

 『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。(ルカの福音書1324)』とイエス・キリストは、私たちに語っています。しかも、これは命令です。
 また、別の箇所では『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)』とも語っています。
 この「狭い門」は、『この方以外には、だれによっても救いはありません(使徒4:11) 』と語られているイエス・キリストご自身を表しています。
 人は「死んだらどうなるのだろう…」という不安を少なからず持っているものですが、聖書は、「イエス・キリストは、私たちののために死なれ、葬られましたが、三日目によみがえられた(Ⅰコリント15:3,4)」と書き記しています。
 このことを事実として受け入れ、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われます。
 しかし、多くの人には「私ののために十字架で死んで下さった。そして、その死んだお方がよみがえる…」という良き知らせ(福音)は受け入れ難いもののようです。
 人々が求める門は魅力的に見え、誰もがそこから入って行くのですが、その先に待ち受けているのは「滅び」です。
 しかも、この「狭い門」は、永遠に開いているのではない、「入ろうとしても門を見つけ出すことができなくなる」とイエス・キリストは私たちに警告するのです。
 入ろうとしても入れなくなる前に、この「狭い門」をたたいてみませんか?

牧師コラム 『からし種とパン種』 2018年9月9日

牧師 高橋勝義     

 からしの種は0.5ミリほどの小さな種です。またパン種とはパンをふっくら膨らませるイ-スト菌のことです。からし種とパン種の共通点は、どちらも小さな種が大きくなるということです。
 聖書が「神の国」を からし種とパン種にたとえているのは、初めの小さな一歩(イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、まことの神の御支配の中に飛び込む決断)が、その人の人生に神の大きな力が働き始める第一歩になるからです。
 聖書の冒頭に『はじめに神が天と地を創造された(創世記1:1)』とあるように、まことの神が私たち人間を創造された時、私たちはこの神と共に歩んでいました。
 ところが、人は神と共に歩むことを拒み、離れてしまったのです。
 創造の初めのように、再び人がまことの神と共に歩む道を備えるために、この世に来られたイエス・キリストは時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と語りました。
 神と共に歩むために必要なことは、「神から離れ、自分中心の歩みをしている罪を認め、イエス・キリストが私の罪の身代わりに十字架の上で死んで下さったことを信じる」ことです。すると、すべてのは赦され『この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)』との御言葉の約束が成就するのです。
 この良き知らせ(福音)を信じるすべての人は、神との壁()が取り除かれ、新しく造り変えられ、新たな歩みに入り、その人の生涯に神の力が働き広がるのです。

牧師コラム 『罪を悔い改める』 2018年9月2日

牧師 高橋勝義    

 イエス・キリストは、『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書135,4)』と二度も繰り返し語られました。
 実はこの御言葉には、警告と希望の二つが語られているのです。
 警告とは悔い改めないなら滅びる、そして希望とは悔い改めるならば滅びない、です。では、何を悔い改めるのでしょうか?
聖書には、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と記されています。
 つまり、滅びとは「さばき」のことなのです。
 なぜ、死後にさばきを受けなければならないのでしょうか?
 その理由は、私たちを造られたまことの神の愛を振り切り、その神から離れ、背を向け、無視し、自分中心に歩んでいる罪によるのです。
 神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちをこのさばきから救うために、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けられたからです。
 この事実を自分のこととして受け取り、イエス・キリストが〔私の罪のために死なれた〕と信じ、自分中心の歩みから神中心の歩みへと向きを変える、これが、罪を悔い改めることなのです。
 そうすれば、さばきから救われ、「滅びない」との希望の約束を自分のものとすることができるのです。
 イエス・キリストは、警告することによって、ご自身の所にこそ希望があることを私たちに教えられたのです。

牧師コラム 『復活信仰の源流』~アブラハムの信仰~ 2018年8月26日

牧師 栗原延元

 前回(72)は、「さあ!天を見上げよ」と題して、創世記15章を学びました。今回は、創世記22章から「復活信仰の源流」と題して、アブラハムの信仰のクライマックスの出来事を学びます。
 アブラハム夫妻に待望の嫡子イサクが与えられます。アブラハムが百歳、妻サラが九十歳です。神の約束のみことばが実現したのです。この間のアブラハムの信仰がローマ書4章に録されています。〈彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムはおよそ百歳になって自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束をうたがうようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。〉そのアブラハムの信仰が試みられるのです。その試みの顛末(てんまつ)を今日の礼拝の中で学びます。
 どうぞ教会の玄関からお入りください。お待ちしております。

牧師コラム 『キリストの愛に動かされて』 2018年8月19日

牧師 高橋勝義     

 東日本大震災から七年…この間、熊本地震、そして西日本豪雨と、日本は各地で想定外の災害が起こる国になってしまいました。
 そのような中、滋賀県大津市にある近江福音自由教会は、2011年の大震災から毎年被災地支援のために石巻に来てくださっています。今年も「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(Ⅰヨハネの手紙318)」また「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ人への手紙1215)」のみことばに従い、キャラバン隊を組んで8/15 8/19迄、約1000枚のチラシ配布や駐車場の草取り、訪問など、様々な御奉仕をしてくださいました。

 イエス・キリストは、『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書1334)』と命じています。

 では、このイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのでしょうか?
 人は私たちを造られたまことの神に背を向けて離れ、自分中心の歩みをしてきました。
 聖書は、これを罪と言っています。この罪が、私たちを苦しめているのです。
 イエス・キリストは、私たちのこの罪を身代わりに負い、十字架の上でご自身のいのちをささげられ、そして三日目によみがえり、救いの御業を完成されたのです。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じるすべての者には、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われる。これが、キリストの愛です。
 近江福音自由教会の方々は、この愛に動かされ、車で約12時間の道のりを石巻まで来てくださったのです。

牧師コラム 『忠実で賢いしもべ』 2018年8月5日

 牧師 高橋勝義     

 「備えあれば憂いなし」という諺があります。
 普段から準備しておけば、いざというとき 何の心配もないという意味です。
 イエス・キリストは、たとえを話されました。そのたとえは、「主人が、婚礼に招待され出かけたが、いつ帰って来るのか分からない。主人が真夜中、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いである。」というものでした。そして、『あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス・キリスト)は、思いがけない時に来るのです。(ルカ12:40)』と締めくくるのです。
 帰りの全く分からない人を待つのは、とてもつらい事です。たとえに出てくる しもべにとっては、それが仕事ですから、辛いなどと言ってはいられません。
 彼に求められていることは、忠実さと状況を見極める賢さです。
 ところで、イエス・キリストは、「思いがけない時に再び来る」というのです。
 2000年前、地上に来られた目的は、私たちを罪から救うために十字架上で死ぬことでした。そして三日目によみがえり、天に戻られました。
 再びイエスがこの世に来られる目的は、さばきを行うためです。
しかし、イエスが再びこの世に来られるのはいつなのか、隠されているので、たとえを通して『いつ来られても良い備え』をしなさいと警告されたのです。
 では、どんな備えをすればよいのでしょうか?それは、イエスを救い主と信じ、神の子どもとして生きることです。神の子どもは、父の教え、即ち、御言葉(聖書)に忠実に聞き従って歩みます。そしてそれは、目を覚ました生き方になるのです。

牧師コラム 『隠れた労苦への報い』 2018年7月29日

牧師 高橋勝義     

 

 

 「終わりよければすべてよし」という諺があります。その意味は、物事は最終の結末がもっとも大事であり、途中の過程は問題にならないということです。
 確かに、最後がうまくいくならば、様々な苦労も報いられるというものです。
 しかし、途中の過程は、本当にどうでもいいのでしょうか?
 心の隅では、ここに至るまでの過程を誰かに見ていて欲しい、隠れた労苦を知って欲しいと思うのも事実です。たとえ、今までの苦労が報われなかったとしても、その間の自分の歩みを知っている人が一人でもいれば、それだけで慰めとなるからです。
 パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(Ⅰコリント人への手紙1558)」と語っています。
 パウロが語る主とは、イエス・キリストのことですが、そのお方が『人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイの福音書1627)』と約束して下さっています。

 人の評価は、常に、偏見や価値観、利害関係などに左右されますが、まことの神の評価は、えこひいきがなく、公平です。また、残された結果だけで判断するのではなく、途中の経過をも大切にして下さいます。

 ですから、あなたの隠れた労苦が主にあって無駄になることは決してないのです。
 あなたの歩みをつぶさに知っておられるお方、イエス・キリストと共に人生を歩みませんか?

牧師コラム 『さあ!天を見上げよ』 2018年7月22日

牧師 栗原延元

 

 

 前回(624)に続き、信仰の父アブラハムの生涯を学びます。
 アブラハムが主のみことばに従って、故郷を出立したのは75歳でした。そのときの主のお約束は、アブラハムの子孫は繁栄するという事でした。
 しかし、充分、老境に達しているアブラハム夫妻には子どもが、ありません。どんなに自分の身が栄えても、それを受け継ぐ子どもが生まれない事には、主のお約束は絵に描いた餅になってしまいます。アブラハムの心の中に、これから先の不安と、新しい環境に適応できるかという恐れが芽生えていました。
 そのアブラハムに、主は「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と語りかけ、さらに夜、外に連れ出して「さあ!天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と主は語られるのです。(創世記155)
 アブラハムは、主の語られたことは、そのとおりになる(アーメン)と信じたのです。キリスト教は、アーメンの宗教とも言われます。アーメンの意味は、「そのとおり」ということです。
 主の語られた事に「アーメン」と唱える人を、主は喜ばれるのです。

牧師コラム 『神の国を求めなさい』 2018年7月15日

牧師 高橋勝義

 

 

 世の男性は家族の為に身を粉にして働き、主婦もやりくりして生活を支えます。
 さらに、歳を重ねると人の世話にならず、出来るだけ健康でいたいと心配します。
 ところで、イエス・キリストは、『あなたがたのうち誰が、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか(ルカ12:25)』と語ります。
 確かにその通りで、必要以上の心配はからだの健康を損ねるばかりです。
 続いてイエス・キリストは『むしろ、あなたがたは御国(神の国)を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。(ルカ12:31)』と語りました。
 これは、私たちを造られた神は毎日の必要な物をよくご存知なので、御国の民にはそれを備えて下さるという約束です。

 この御国(神の国)とは、神のご支配が満ちているところ、の意味であり、さらに御国の国民になるには、新しく生まれる必要があるのです。

 どうすれば、人は新しく生まれることが出来るのか…。

 『神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました(Ⅰペテロ1:3)』とあるように、『(イエス・キリストが)私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)』を信じることなのです。
 そうすれば、誰でも新しく生まれた者となり、神の国の民となるのです。
 あなたも神の国の民になり、まことの神の守りの中で生きる者になりませんか?