牧師コラム 『恐れるな、信じなさい』 2017年11月19日

 牧師 高橋勝義

 自分の力ではどうすることもできないことが起った時、将来に希望が持てない時、私たちは、恐れと不安に襲われます。ひとり娘が死にかけていた会堂管理者のヤイロは、イエス・キリストにすべてを託し、家まで来て下さるようにお願いしました。
 しかし、イエスが彼の家に向かおうとすると、群集が押し寄せ、そのどさくさにまぎれ、十二年の間長血をわずらっていた女が「(イエスの)着物に触ることでもできれば、きっと直る(マタイ9:21)」と信じてイエスの着物に触ったのです。
 すると、その女の病は直りました。その時、「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。(ルカ8:49)」との悲しい知らせが届きました。
 イエス・キリストは、これを聞いてヤイロに「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。(ルカ8:50)」と語り、彼に信仰に立つように促したのです。
 死んだ娘が生き返る…どう考えてもあり得ない事です。
 ヤイロはイエスのことばを信じ、家にお連れしました。
 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいましたが、イエスは「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と言われたのです。
 しかし、人々は、イエスをあざ笑いました。
 そして、イエスが「子どもよ。起きなさい。(ルカ8:54)」と命じると娘は生き返ったのです。ペテロが『あなたがたの信仰と希望は神にかかっている(Ⅰペテロ1:21)』と語っている通りです。まさに、彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない(ローマ9:33)』のです。
 これは、信仰による約束です。

牧師コラム 『いと高き神の子』 2017年11月12日

 牧師 高橋勝義   

 悪霊に憑かれている男は、イエス・キリストに出会うと「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。(ルカ8:28)」とひれ伏し、大声で叫びました。
 この男を支配している悪霊は、イエスが、どんなお方なのかを知っており、イエスを非常に恐れていることが分かります。そうでなければ、「お願いです。どうか私を苦しめないでください。」などと言ったりはしません。また、悪霊は、イエス・キリストがこの世に来られた目的をも知っていました。
 聖書は、私たちの姿について「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪霊)に従って、歩んでいる(エペソ2:2)」と記し、その結果「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」と語っています。
 しかし、これだけでは終わりません。この次に続く御言葉が、とても重要になってきます。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)」。
 イエス・キリストは、私たちを罪の支配(悪霊の支配)から解放するために、十字架で身代わりとなって死に、三日目によみがえり、人間にとって最大の恐怖である【死】を打ち破られたのです。
 それ故、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを頂き、滅びから救われ、新しいいのちに生きる者へと変えられるのです。
 これらすべては、私たちへの神からの賜物(プレゼント)なのです。
 十字架は、罪の支配(悪霊の支配)から私たちを解放する力です。
 この目的のために、『いと高き神の子』であるイエス・キリストは、この世に来られたのです。

牧師コラム 『預言者ヨナの説教』 2017年11月5日

 牧師 栗原延元

 前回(101)はヨナが魚の腹の中から、彼の神、主に祈った祈りのことばを学びました。今回は、魚の腹の中から陸地に吐き出されたヨナがニネベの町に行って、主のことばを伝えたヨナの説教の働きとその結果について学びます。
 当時のニネベは、行き巡るのに三日もかかるほどの非常に大きな町でした。12万人以上の人間と数多くの家畜とがいました。その町の人々にヨナは歩き回りながら「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んだのです。悪と暴虐が町中にはびこっていたニネベの町でしたが、ヨナの宣教のことばによってニネベの町の人々は、こぞって神を信じ、悪の道から立ち返り、暴虐な行いを悔い改めました。
 主なる神はニネベの町の人々が悪の道から立ち返るために努力しているのをご覧になって、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直して、そうされなかったのです。
 ヨナの説教で悔い改めたニネベの人々をイエスは称賛しました。 (マタイ1241) そして、〈ここにヨナよりもまさった者がいる〉と、ご自身が誰であるかを明らかにするのです。まさにイエスこそ、神が世を救うために、天から遣わされたお方なのです。

牧師コラム 『あなたの信仰はどこにあるのですか』 2017年10月29日

 牧師 高橋勝義

 イエス・キリストとその弟子たちは、舟で湖を渡ろうとしていました。
 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれたのですが、そこに突然、突風が吹き荒れ、弟子たちは水をかぶり危険になりました。
 弟子たちは、イエスを起こし「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と必死に助けを求めたのです。
 そこで、イエスは、起き上がり、風と荒波とをしかりつけました。
 すると、風も波も収まり、湖は穏やかになったのです。
 イエスは、弟子たちに『あなたがたの信仰はどこにあるのです』と問いただしました。
 舟には、この湖で漁をしていた元漁師が4人も乗っていました。
 しかし、湖を熟知している彼らでもどうすることも出来ない突風がやって来たのです。彼らの経験や知識は、全く役に立ちませんでした。
 それどころか、死の危険を感じ、慌てふためいたのです。
 信仰は、生活のただ中で働かせてこそ、力になるのですが、残念ながら、肝心な時に彼らの信仰は働かなかったのです。
 弟子たちは、イエスと寝食を共にしていましたから、イエスの歩みのすべてを日々見ていました。にもかかわらず、イエス・キリストというお方がどのようなお方なのか、分かっていなかったのです。
 『あなたがたの信仰はどこにあるのです』は、ご自身のことを分かっていないことへの嘆きなのかもしれません。
 幸いにも、弟子たちは、イエスがおられることに気付き、助けを求めました。
 「ことばで、嵐を鎮めるお方」に信頼して歩むならば、たとえ、あなたの日々の暮らしの中に大嵐が襲って来たとしても、まことの神イエス・キリストがあなたを助けて下さいます。

牧師コラム 『神の御心を行う』 2017年10月22日

 牧師 高橋勝義  

 イエス・キリストは、ご自分に会いに来た母と兄弟に『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです(ルカ8:21)』と語りました。
 一見すると、愛のない、思いやりのない言葉のように聞こえてしまいます。
 しかし、マルコの福音書335節で『神の御心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです』と語っているように、ここでは、信仰を持つ者同士の関係について語られたのです。
 そして、そのポイントは、[神の御心を行う]ことです。
 イエス・キリストは、父なる神の御心を行うためにこの世に遣わされました。
 その御心について、『事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6:40)』と語っています。
 人は、まことの神から離れ、自分の願うままに生きています。
 聖書は、その行き着く先について『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)』と語っています。
 愛なる神は、滅びとさばきからすべての人を救うために、イエス・キリストをこの世に遣わし、すべての人の罪の身代わりに、十字架で彼を処罰されたのです。
 この良き知らせ(福音)を信じる者には、みな永遠のいのちが与えられ、イエス・キリストがよみがえったように、終わりの日によみがえる約束をくださったのです。
 神の御心は、イエス・キリストの十字架によって成し遂げられ、その恵みを受けた者に引き継がれ、御心を行う者へと変えられていくのです。

牧師コラム 『聞き方に注意しなさい』 2017年10月15日

牧師 高橋勝義

  話し上手な人は、他人の話を聞くのも上手とよく言われています。
 しかし、聞き上手が、必ずしも、相手の真意を正しく理解できているどうかまでは分かりません。ここが肝心なところです。
 イスラエル民族の指導者たちは、イエス・キリストの話を聞きに出かけて行きました。その彼らに対し、イエス・キリストは、彼らが言葉巧みにはぐらかすので、『聞き方に注意しなさい(ルカ8:18)』と警告するのです。
 なぜなら、まことの神の前では、『隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはない(ルカ8:17)』からです。
 まことの神の御言葉を聞くという事は、神が自分に何を語っておられるのか、真摯に向き合い、その神に信頼し、従う歩みをすることなのです。
 そうした神に従う日々の暮らしの中で、人は、神の愛と恵みを味わい知るのです。
 そして、これら一つ一つの積み重ねが、やがては、大きな祝福へとなっていくのです。
 では、具体的にはどうすればよいのか。預言者イザヤは、まことの神の思いをこう語ります。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。(イザヤ57:15)』」
 つまり、心砕かれ、へりくだることこそが、神の御言葉を聞く時の姿勢なのです。
 心砕かれ、へりくだるとは、神の前に、自分の弱さ・無力さ・足りなさを素直に認め、神に助けを求めることです。そうすれば、神が、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かして下さるのです。
 この約束が、あなたの中で大きな力になるのです。

 【お詫びと訂正】

  2017528日の「牧師コラム」で「石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎の代表作に『仮面ライダー』があります。」と記載しました。
 石ノ森章太郎氏の出身地は、「登米市である」との指摘を受け、確認したところ、確かに「登米市」でした。しかも、登米市には、「石ノ森章太郎ふるさと記念館」があることも分かりました。
 私の思い込みで、間違ったことを記載し、誠に申し訳ありません。
 ご指摘して下さった方に、心から感謝します。

牧師コラム 『安らぎと平安』 2017年10月8日

牧師 高橋勝義

 

 渡波の地に移り住んで、1年半が過ぎました。当初は、風の音に驚かされ、半島に向かうダンプの音も気になりましたが、今はすっかり慣れました。
 近くに生協・イオン・地元のスーパーあいのやがあり、生活の不便は感じません。
 震災から七年目に入り、街は、日ごとに変化しています。
 しかし、震災の傷跡は、簡単に消えるものではありません。
 人々の話を聞くたびに、安らぎと平安を与えることが出来るのは、天地万物を創られ、私たちを愛しておられるまことの神だけであると痛感します。
 私には、「神が愛なら、なぜ、このような悲劇が起こるのか」の問いに答えられません。
 イエス・キリストは、『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)』と命じられました。
 私たちを愛して下さったイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのか。
私たちは、 私たちを創られた神から離れ、自己中心の歩みをしています。
 この罪のために、イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって、十字架で死なれました。
 ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを罪から救おうとされたのです。
 これが、イエス・キリストの愛です。 このイエス・キリストの愛に、世界中の教会が、動かされ、被災された方々のために祈り、支援活動をさせて頂きました。
 また、アメリカの子どもたちが、自分のお小遣いの中から、被災地の為にと献金し、仙台福音自由教会に届けられました。
 この地の方々に、このイエス・キリストの愛をお伝えし、まことの神からくる安らぎと平安の中で人々が憩うことが出来ますように願っています。

牧師コラム 『預言者ヨナの祈り』 2017年10月1日

牧師 栗原延元

 

 ヨナ書2章は、預言者ヨナの祈りが詳しく書きしるされています。まずヨナはどこで祈ったかと言いますと、神殿でも、街角でも、自分の家の中でもなく、魚の腹の中からでした。大嵐の中、ヨナは海に投げこまれました。このとき〈主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませまた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた〉(ヨナ書117)とありますから、この魚の腹の中から祈ったのです。この魚はクジラのようです。クジラには胃袋がありませんから、胃液で溶かされなかったのでしょう。
 〈私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶとあなたは私の声を聞いてくださいました。〉(ヨナ書22)。ヨナは絶体絶命の中で主に祈るのです。ヨナの乗船した船が大嵐に遭遇し、水夫たちがそれぞれの神に祈っていたときには、ヨナは祈りませんでした。水がのどを締めつけ海草がヨナの頭にからみつき、いのち尽き果てるときになって、ヨナは祈るのです。それは、ヨナが主を思い出したからなのです。
 毎日の忙しさの中で人は、神を忘れがちになります。日々、神に祈ることの大切さをヨナから学びたいものです。

牧師コラム 『実を結ぶ人生』 2017年9月24日

牧師 高橋勝義

 ヘレン・ケラーは、「希望は、人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就しない。」と語ったそうです。
 では、成功に導く希望とは、何でしょうか。
 イエス・キリストは、種まきのたとえを話されました。
 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥が食べてしまいました。
 岩地に落ちた種は、芽を出すが、水分がないので枯れてしまいました。
 いばらの中に落ちた種は、いばらも一緒に芽を出すので、いばらにふさがれてしまいました。
 良い地に落ちた種は、百倍の実を結びました。
 このたとえは、何を教えようとしているのでしょうか。
 種とは、神の御言葉です。
 道端に落ちるとは、御言葉を聞きますが、自分の関心事に心が奪われてしまう人のことです。
 岩地に落ちるとは、試練や困難に会うと、すぐ手のひらを返し、いとも簡単に元の生活に戻る人のことです。
 いばらに落ちるとは、この世の心づかいや富や快楽を求めてしまう人のことです。
 良い地に落ちるとは、『正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8:15)』。
 神の御言葉を信じたからと言って、何の問題もなく、すべて順風満帆に物事が運ぶわけではありません。もちろん、困難は、やってきます。
 しかし、イエス・キリストは、『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)』と約束して下さっています。
 あなたは、決して一人ではありません。友であるイエス・キリストが、いつもあなたのかたわらにいて慰め・励まし・助けて下さるのです。
 イエス・キリストに信頼して歩むことが、実を結ぶ人生であり、希望なのです。

牧師コラム 『わたしをよけい愛したので』 2017年9月17日

牧師 高橋勝義

 人々から罪深い女と言われていたひとりの女が、パリサイ人シモンの食卓に着いているイエス・キリストの所に行き、泣きながら、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その御足に口づけして、高価な香油を塗りました。
 これを見ていたシモンは、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていました。イエス・キリストは、彼の思いを察し、たとえを話されます。
 そのたとえとは、「金貸しから五百デナリと五十デナリ借りている人がいました。金貸しは、彼らをかわいそうに思いふたりとも赦してやった。」という話です。
 一デナリは、当時の一日分の賃金に相当しますから、かなりの金額になります。
 イエス・キリストは、シモンに「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか」と尋ねます。すぐに彼は「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエス・キリストは、「あなたの判断は当たっています」と言われました。
 シモンは、イエス・キリストを客として招きながら、実は、足を洗う水を用意せず、挨拶もしなかったのです。イエス・キリストは、この女の行為を、わたしをよけい愛したので『この女の多くの罪は赦されている』と宣言したのです。
 さらに、イエス・キリストは、罪深い女に『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(ルカ7:50)』と優しく語りました。
 罪深い女は、イエス・キリストならば、自分を救って下さると信じたので、高価な香油を惜しげもなく注ぐという大胆な行動へと導かれたのです。