牧師コラム 『忠実で賢いしもべ』 2018年8月5日

 牧師 高橋勝義     

 「備えあれば憂いなし」という諺があります。
 普段から準備しておけば、いざというとき 何の心配もないという意味です。
 イエス・キリストは、たとえを話されました。そのたとえは、「主人が、婚礼に招待され出かけたが、いつ帰って来るのか分からない。主人が真夜中、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いである。」というものでした。そして、『あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス・キリスト)は、思いがけない時に来るのです。(ルカ12:40)』と締めくくるのです。
 帰りの全く分からない人を待つのは、とてもつらい事です。たとえに出てくる しもべにとっては、それが仕事ですから、辛いなどと言ってはいられません。
 彼に求められていることは、忠実さと状況を見極める賢さです。
 ところで、イエス・キリストは、「思いがけない時に再び来る」というのです。
 2000年前、地上に来られた目的は、私たちを罪から救うために十字架上で死ぬことでした。そして三日目によみがえり、天に戻られました。
 再びイエスがこの世に来られる目的は、さばきを行うためです。
しかし、イエスが再びこの世に来られるのはいつなのか、隠されているので、たとえを通して『いつ来られても良い備え』をしなさいと警告されたのです。
 では、どんな備えをすればよいのでしょうか?それは、イエスを救い主と信じ、神の子どもとして生きることです。神の子どもは、父の教え、即ち、御言葉(聖書)に忠実に聞き従って歩みます。そしてそれは、目を覚ました生き方になるのです。

牧師コラム 『隠れた労苦への報い』 2018年7月29日

牧師 高橋勝義     

 

 

 「終わりよければすべてよし」という諺があります。その意味は、物事は最終の結末がもっとも大事であり、途中の過程は問題にならないということです。
 確かに、最後がうまくいくならば、様々な苦労も報いられるというものです。
 しかし、途中の過程は、本当にどうでもいいのでしょうか?
 心の隅では、ここに至るまでの過程を誰かに見ていて欲しい、隠れた労苦を知って欲しいと思うのも事実です。たとえ、今までの苦労が報われなかったとしても、その間の自分の歩みを知っている人が一人でもいれば、それだけで慰めとなるからです。
 パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(Ⅰコリント人への手紙1558)」と語っています。
 パウロが語る主とは、イエス・キリストのことですが、そのお方が『人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイの福音書1627)』と約束して下さっています。

 人の評価は、常に、偏見や価値観、利害関係などに左右されますが、まことの神の評価は、えこひいきがなく、公平です。また、残された結果だけで判断するのではなく、途中の経過をも大切にして下さいます。

 ですから、あなたの隠れた労苦が主にあって無駄になることは決してないのです。
 あなたの歩みをつぶさに知っておられるお方、イエス・キリストと共に人生を歩みませんか?

牧師コラム 『さあ!天を見上げよ』 2018年7月22日

牧師 栗原延元

 

 

 前回(624)に続き、信仰の父アブラハムの生涯を学びます。
 アブラハムが主のみことばに従って、故郷を出立したのは75歳でした。そのときの主のお約束は、アブラハムの子孫は繁栄するという事でした。
 しかし、充分、老境に達しているアブラハム夫妻には子どもが、ありません。どんなに自分の身が栄えても、それを受け継ぐ子どもが生まれない事には、主のお約束は絵に描いた餅になってしまいます。アブラハムの心の中に、これから先の不安と、新しい環境に適応できるかという恐れが芽生えていました。
 そのアブラハムに、主は「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と語りかけ、さらに夜、外に連れ出して「さあ!天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と主は語られるのです。(創世記155)
 アブラハムは、主の語られたことは、そのとおりになる(アーメン)と信じたのです。キリスト教は、アーメンの宗教とも言われます。アーメンの意味は、「そのとおり」ということです。
 主の語られた事に「アーメン」と唱える人を、主は喜ばれるのです。

牧師コラム 『神の国を求めなさい』 2018年7月15日

牧師 高橋勝義

 

 

 世の男性は家族の為に身を粉にして働き、主婦もやりくりして生活を支えます。
 さらに、歳を重ねると人の世話にならず、出来るだけ健康でいたいと心配します。
 ところで、イエス・キリストは、『あなたがたのうち誰が、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか(ルカ12:25)』と語ります。
 確かにその通りで、必要以上の心配はからだの健康を損ねるばかりです。
 続いてイエス・キリストは『むしろ、あなたがたは御国(神の国)を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。(ルカ12:31)』と語りました。
 これは、私たちを造られた神は毎日の必要な物をよくご存知なので、御国の民にはそれを備えて下さるという約束です。

 この御国(神の国)とは、神のご支配が満ちているところ、の意味であり、さらに御国の国民になるには、新しく生まれる必要があるのです。

 どうすれば、人は新しく生まれることが出来るのか…。

 『神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました(Ⅰペテロ1:3)』とあるように、『(イエス・キリストが)私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)』を信じることなのです。
 そうすれば、誰でも新しく生まれた者となり、神の国の民となるのです。
 あなたも神の国の民になり、まことの神の守りの中で生きる者になりませんか?

牧師コラム 『神に対して富まない者』 2018年7月8日

 牧師 高橋勝義

 

 

 群集の中のひとりが「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」とイエス・キリストにお願いしました。すると、主は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではない」(ルカ12:15)と語り、それを人々に教えるために、一つのたとえを話されました。
 ある金持ちの畑が大豊作となり、その作物を入れる場所が足りなくなりました。そこで、倉を壊し、もっと大きいのを建て、自分の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分も一杯物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:1619)
 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:20,21)

 神に対して富まない者とは、まことの神に背を向けて離れ、神の教えに聞き従わず、自分のことしか考えないで歩んでいる人のことです。
 つまり、人生の目的をどこに置いているのかが、問われているのです。
 ですから、イエス・キリストは『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。』(マタイ16:26)と私たちに問いかけています。
 イエス・キリストは、私たちに「永遠のいのち」を得させるためにこの世に来られました。
 あなたの人生の目的は、富ですか、それとも永遠のいのちですか…。

牧師コラム 『まことの神を恐れよ』 2018年7月1日

 牧師 高橋勝義

 

 

 イエス・キリストは、パリサイ人の偽善に気をつけるようにと語りました。
偽善とは表と裏が違う二重人格的な生き方ですが、人々はパリサイ人の、人に良く見せる偽善に気づくどころか、彼ら指導者たちの言動を恐れていました。
 しかし、イエス・キリストは、『殺した後で、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:5)』と語られたのです。たとえ、うわべをいかに善人のように見せかけたとしても、『おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない(ルカ12:2)』のように、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる神の前では、すべてが明らかにされるからです。
 聖書は、『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』と記しています。
 また、『人間には、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている(へブル9:27)』とも記しています。
 まことの神は、私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、イエスを信じる者が滅びではなく、永遠のいのちを持つために、彼にすべての罪を負わせ、十字架刑で罪の処罰をされたのです。(ヨハネ3:16)
 『まことの神を恐れよ』とは、神はゲヘナに投げ込む権威を持っておられるお方であり、しかし私たちをそこから救い出して下る愛のお方であること、この事実を畏れと感謝をもって受け取り、このお方に聞き従う歩みをすることなのです。

牧師コラム 『熱心さからくる矛盾』 2018年6月17日

牧師 高橋勝義

 

 

 矛盾ということわざは、どんな盾(たて)でも突き通すという「矛(ほこ)」と、どんな矛でも防ぐという「盾」を同時に売ろうとしている話しから来ています。
 物事の道理が一貫せず、つじつまの合わない話しなのは誰にでも分かります。
 イエス・キリストが、パリサイ人の家の食事に招かれ時のことです。
 当時、食事の前には、手を洗う慣わしになっていたのですが、イエス・キリストは、用意された器で手を洗うことをしませんでした。
 パリサイ人は、これに驚きました。そこで、イエス・キリストは、『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています(ルカ11:39)』と語り、また、彼らの高慢な態度と偽善を非難したのです。
 これを聞いていた律法の専門家たちは、自分たちも侮辱されていると怒ります。
 すると、今度は、律法の専門家たちに『人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)』と語ったのです。
 イエス・キリストは、本来守るべきまことの神の教えよりも、いつのまにか、先祖たちの言い伝えの方を優先するようになっていることを非難したのです。
 彼らは、イエス様の忠告を受け入れられません。
 なぜなら、熱心が暴走し、自分たちの考えこそが正しいとなり、自らの姿が見えなくなっていたからです。
 ですから、聖書は「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい(Ⅱペテロ1:20)」と戒めています。
 大事なことは、素直に、神の語られた御言葉を毎日の生活の中に当てはめて歩むことなのです。

牧師コラム 『闇から光へ』 2018年6月10日

 牧師 高橋勝義     

 蛍光塗料は、光を蓄え、暗くなると、吸収した光を発散させて輝きます。
 しかし、その欠点は光を受けないと輝けないということです。
 イエス・キリストは、『からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)』と語りました。
 また、『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネ12:46)』とも語っています。
 イエス・キリストは、私たちが「闇の中にいる」と言っていますが、闇の中にいるとは、まことの神に背を向け、自分の考えこそ正しいと信じる自己中心の人生を送っていることです。これが、聖書の示す罪なのです。
 罪がもたらすものは、「憎しみ・恨み・妬み・偽り」などです。これらが、人間関係を壊し、自分自身も傷つけます。心が病めば、からだも病むのです。
 この闇の中から脱出する方法は、光であるイエス・キリストを信じることです。
 しかし、人は自分が闇の中にいることが分かりません。
 十字架は、私たちが闇の中にいることを教え、光に導きます。
 ところが、私たちの心の目が曇っていると、光を見ているにもかかわらず、光が全く見えないのです。
 イエス・キリストは、私たちを闇の中(罪の中)から救い出すためにこの世に来られ、十字架の上で、私たちのすべての罪の身代わりとなって死なれました。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じる者となって、あなたも、闇から光の中を歩む人生に変わる道を求めてはみませんか…。

牧師コラム 『あなたの主人は誰か』 2018年6月3日

 牧師 高橋勝義

 

 
 戦国時代は、男にとってロマンがありました。なぜなら、一国一城の主になれるチャンスがあったからです。それには、誰に仕えるかが、とても重要になって来ます。
 現代でも、良い上司に恵まれれば、出世の道も開かれていきます。
 ところで、イエス・キリストは、『わたしに味方しない者はわたしに敵対している(ルカ11:23)』と語りました。「わたし」とは、もちろん、イエス・キリストのことです。
 この意味を考える前に、まず、私たち自身の姿を知る必要があります。
 聖書は、まことの神から離れ、背を向けて歩んでいることを罪と言っています。
 この罪の歩みをしている私たちのことを、イエス・キリストは、『まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8:34)』と語っているのです。
 つまり、罪の奴隷になっているのが、私たちの姿なのです。
 罪の奴隷とは、「恨み・妬み・憎しみ・嫉妬・うそ・意地悪・怒り」などに支配されていることを指しています。現に、私たちは、自分の心をコントロール出来ず、その結果、人間関係が損なわれ苦しんでいます。
 この罪の奴隷状態から私たちを解放するために、神はイエス・キリストを十字架の上ですべての罪の身代わりに処罰されました。
 『イエス・キリストの味方になる』とは、この事を自分のこととして受け入れ、イエス・キリストを信じることです。
 これが、罪から解放されることになるからです。
 イエス・キリストは、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします(ヨハネ) 8:32』と約束しています。あなたも是非、イエス・キリストに味方する者となって、罪の奴隷から解放される人生に踏み出しましょう…。

牧師コラム 『隣人とは誰か』 2018年5月27日

牧師 栗原延元

 

 

 前回(415)に続いてカインと弟アベルの物語を学びます。
 カインは弟アベルのささげものが主の目に留められたことに、ひどく怒ります。その怒りを鎮めるように、主はカインに言われます。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記46,7)。しかし、カインは弟アベルを野に誘い出して殺してしまいます。そのカインに、主は「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問いますが、「知りません。私は弟の番人なのですか」とカインは主に答えるのです。
 カインは弟に、兄のプライドを傷つけられたのです。
 人はプライドの固まりなのでしょうか。カインは弟アベルと正しい兄弟関係を築くことはできなかったのです。
 人間関係を正しく築く要点は、まず、自分を愛するように、隣人を愛することであり、その愛は、救い主イエスを信じる信仰から生まれて来るのです。良き隣人となる道を歩む中に愛は有るのです。