牧師コラム 『忠 実』 2018年12月2日

牧師 高橋勝義

 「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があります。何ら努力もしないで、良い結果を期待しても得られないという意味です。
 イエス様は、一人の管理人のたとえを話されました。
 この管理人は主人の財産を無駄遣いしている、と訴えられ仕事を失う危機に直面します。彼は「土を掘る力もないし、物乞いをするのは恥ずかしい」ので、主人の債務者一人ひとりを呼び、その債務を軽くしてやり、管理の仕事を辞めさせられても、恩を売っておいた人々が自分を家に迎え入れてくれるようにした、というのです。
 イエス様は、この管理人の不正行為そのものを奨励しているのではなく、危機に直面した時、尚も不正な富に頼り、知恵を絞って解決策を見出し、将来への備えをする抜け目のない、ずる賢い行為をほめたのです。
 なぜ、人は、富に執着するのか?それは、富がなければ、幸せになれないと信じているからです。だから、あらゆる知恵を用いて、富を得ようとしています。
 イエス様は、『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。(ルカ16:13)』と語られます。
 あなたの心はどこに向いているのか、何を頼りにするのか、また、将来への備えが出来ているのか、とイエス様は問うているのです。
 「二兎追う者は一兎をも得ず」のたとえの如く、私たちを愛しておられる神に従うのか、それとも消えてなくなる富を選ぶのか…。
 あなたはどちらでしょうか。

牧師コラム 『石の枕に』 2018年11月25日

 牧師 栗原延元

 前回(1021)は、アブラハムの息子イサクの結婚について学びました。今回はイサクの息子ヤコブの生涯を学びます。
 ヤコブは双子の弟として、生まれます。生まれてくるとき、兄(エサウ)のかかとをつかんでいたので、「押しのける者」という名(ヤコブ)とつけられました。
 出産のときからそれに先立ち、母の胎内にいるとき、すでにこの二人はぶつかり合っていたのです。ヤコブと兄エサウの格闘は創世記の物語の中で興味をそそるものです。
 今日は、兄エサウの殺意を逃れて、(何故エサウが弟ヤコブを殺そうとしたかは創世記27章が詳しく描いています)母リベカの故郷(カラン)に旅立つところを学びます。「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。」(創世記2811)石を枕にして野宿するとは、なんと心細く、寂しいことでしょう。その夜、ヤコブは夢を見るのです。天からはしごが地に向けて立てられ神の使いたちが、そのはしごを上り下りし、主の使いがヤコブのかたわらに立つのです。主なる神と出会うことによって、ヤコブは、苦難を乗りこえて行くのです。

牧師コラム 『天の父なる神の愛』 2018年11月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス様は『迷子になった一匹の羊』『紛失した銀貨』のたとえから、まことの神は失われた者を見つけるまで捜し続ける愛のお方である、ことを私たちに語りました。
 それに続く三つ目のたとえは、本日の聖書箇所『失われた息子のたとえ』です。
 父に財産を分けて欲しいと願った弟息子は、遠い国に旅立ち、財産を湯水のように使い果たしました。そして、激し飢饉が起こった時、彼を助ける人は誰もいませんでした。空腹で豚の餌で腹を満たしたいほどだった彼は我に返り、「罪を犯していることに気付き」、父のもとへ向かったのです。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、駆け寄り彼の首を抱き、口づけし、『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と言って祝宴を開いたのです。
 どこにでもあるような話ですが、これは、神(創造主)と私たちの関係について語っています。
 私たちは、私たちを造られた神から離れ、背を向け、それぞれ自分勝手な道に向かっていき、その歩みは迷子の羊のようにさまよっているのです。
 「我に返った」弟は、そこが自分のいる場所ではないことを悟ったのです。
 父なる神は、私たちが神のところに戻るのを妨げている罪をすべてイエス・キリストに負わせ、十字架の上で処罰することによって、ご自身との関係を修復し、私たちを滅びから救う道を備えられたのです。
 あなたが、十字架を仰ぎ見て、神の方に向きを変えるならば、今のあなたがどんな状態であろうと父なる神はそのまま受け入れ、赦し、愛の御腕の中にあなたを包んで下さるのです。
 立ち止まって、自分の人生を見つめなおしてみませんか?

牧師コラム 『天で起こる大いなる喜び』 2018年11月11日

牧師 高橋勝義     

 「喜怒哀楽」と言う言葉があるように、人は、様々な出来事に会うと、喜び・怒り・悲しみ・楽しみの四つの感情が湧き出てきます。
 イエス・キリストは、『あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカの福音書157)』と語りました。
 それと同じようにとは、「羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたので、その人は九十九匹を野に残し、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩き、見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、人々を呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」というたとえ話のことです。
 いなくなった一匹の羊とは、私たちのことです。
 では、なぜ、いなくなったのか?
 それは、私たちを造られた神のところから出て行ってしまったからです。
 まことの神は、いなくなった一匹の羊を見つけ出すまで、捜し続けて下さるお方なのですが、私たちは「まことの神の声」を聞こうとしないのです。
 時満ちて、神は私たちに対するご自身の愛を知らせるために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、神に従わない私たちの罪を代わりに負わせ、十字架の上で処罰したのです。
 十字架を仰ぎ見て、自分の罪のために、イエス・キリストが死んで下さったことを認め、神に立ち返る(悔い改める)と、天では大きな喜びが沸き上がるのです。
 それは、まことの神のもとに戻って来た喜びの大歓声です。
 あなたは、かけがえのない存在として神に愛されているのです。

牧師コラム 『弟子の道』 2018年11月4日

 牧師 高橋勝義     

 学問や技能などを伝授する側が「師」、伝授される側が「弟子」です。
 イエス・キリストは、『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書1426,27)』と語りました。
 イエス・キリストは、大切なものであっても手放さなければ、弟子になれないと言われたのです。
 大切なものを手放しても惜しくないものとは、何でしょうか?
 神のひとり子イエス・キリストは、人を滅びに向かわせている罪があること、その滅びから救うために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれました。
 私たちが、この事実を受け取り自らの罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じると、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われるのです。
 この救いの恵みを頂いたすべての者に、キリストは、ご自分がいのちを惜しまずに献げたように、本気でわたしに従う、弟子になるのかと問うているのです。
 なぜなら、弟子に、この素晴らしい救いの福音を託そうとしているからです。
 弟子が人々に伝授することは、この救いの福音を宣べ伝えることです。
 また、弟子の道は、自分の力で努力して頑張るのではなく、むしろ、自分の無力さを知り、その無力さを認め、神の力に頼って生きることなのです。
 キリストを信じるすべて者に、神は、助け主(聖霊なる神)を信じる者の内に住まわせて、弟子の道を歩めるように励まし、助け、導いて下さるのです。

牧師コラム 『ここに愛がある』 2018年10月28日

 牧師 高橋勝義     

 S・ムーニーハムは「口先だけで『愛している』と言われても簡単に無視できるけれど、態度で示されると、ついほだされてしまう。」と語りました。
 人は、だれでも「愛」を求めていますが、「愛」は見えません。それ故、自分の愛を相手に知ってもらうために、「プレゼント」というかたちで示します。
 聖書は『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ410)』と語っています。あまり馴染みのない「なだめのささげ物」という言葉が出てきます。国語辞書を開いてみると「怒りや不満などをやわらげ静める。事を荒だてないようにとりなす。」と記されています。
 ここで重要なことは、誰をどのような方法で「なだめるのか」です。
 人は、自分たちを造られた神のもとから飛び出し、背を向け、自分勝手な歩みを続けています。これが罪です。ですから、人が、神をなだめることは絶対に出来ません。
 そこで、神は御子、即ち神の愛する一人子であるイエス・キリストを「神へのなだめのささげ物」とするためにこの世に遣わされたのです。そして、イエス・キリストを十字架の上で私たちの罪の身代わりに処罰されたのです。
 まことに、イエス・キリストの十字架は、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっていることを示しているのです。
 十字架は、私たちのすべての罪を取り除くのですが、それには、罪を認め、悔い改めることが必要です。
 この神の愛を受け取り、新しい人生を目指しませんか?

牧師コラム 『アブラハムの神への祈り』 2018年10月21日

牧師 栗原延元

  「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みをほどこして下さい。」(創世記2412)。これはアブラハムのしもべの祈りです。彼はアブラハムの息子イサクの妻となる娘さんをさがしに、アブラハムの生まれ故郷に出かけました。彼が目的地に着いたのは夕暮れ時でした。女たちが町の外の井戸に水を汲みにやって来る時でした。
 その時のしもべの祈りを聖書は詳しく録しています。長い引用になりますがここに書きしるします。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記241314)
 この祈りの通りに物語は進行して行くのです。アブラハムの神への祈りは大きな祝福が伴うのです。

牧師コラム 『神はあなたを招いておられる』 2018年10月14日

牧師 高橋勝義     

 あなたは、だれと一緒に食事をする時に幸せを感じるでしょうか…。
 イエスとともに食卓に着いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いないのでしょう(ルカの福音書1415)」とイエスに言いました。
 これを聞いたイエス・キリストは、たとえ話をされます。

 『ある人が、盛大な宴会を計画し、大勢の人たちを招きます。宴会の時刻になったので、しもべを遣わし招いた人たちに「さあ、おいでください。用意ができました。」と知らせたのですが、人々は色々な理由をつけ断ったのです。しもべが、このことを報告すると、主人は怒り、急いで大通りや路地にしもべを行かせ、貧しい人たちや、からだの不自由な人たちを連れてくるように命じました。そして、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません(ルカ14:24)」と言ったのです。』

 主人とは、天の父なる神です。しもべとは、イエス・キリストのことです。
 イスラエル人は、救い主が来ることを教え告げられていました。
 しかし、その救い主、イエス・キリストが自分たちのところに来られたにもかかわらず、そのことばを聞こうともせず、それどころか、拒んだのです。
主人( 神)は、招きを断った人たち(イスラエル人)の代わりに、新しい人たち(私たち異邦人)を食事に招きました。
 そして、この招きは、今、あなたに届いています。
 即ち
、神に背を向け歩んでいた罪の身代わりにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは神の国の食卓に迎え入れられるのです。
 あなたを愛しておられる神の招きに応答して、神の国の食卓に着きませんか?

牧師コラム 『神の前にへりくだる』 2018年10月7日

牧師 高橋勝義     

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言は、謙遜の大切さを教えています。へりくだることは人にとって、それぐらい難しい事なのでしょう。
 イエス・キリストも、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書1411)』と語りました。
 また聖書は、「主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(Ⅰコリント4:5)」と語っています。更に、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:10)」とも語っています。
 「」とは、もちろん、イエス・キリストです。
 人の評価は、変わります。また、時代によっても、その時々の価値観によっても変わります。しかし、イエス・キリストの評価は、常に、変わることがありません。えこひいきがなく、わいろを取ることもなく、公平です。
 なぜなら、私たちの心の中のはかりごとまでもすべて御存知なお方だからです。
 このお方の前に立つならば、誰が自分の正しさを弁明できるでしょうか?
 神の前にへりくだるとは、自分の弱さを受け入れ、神の力なくしては生きていけないことを認めることなのです。
 この姿勢が、人を謙遜な者にさせるのです。
 神は、へりくだる者と共に歩まれ、その人の内には神の愛、平安、喜びが溢れ、神の栄光がその人を通して表されるのです。

牧師コラム 『愛と希望の警告』 2018年9月30日

牧師 高橋勝義     

 警告とは、「よくない事態が起こりそうなので気を付けるよう、告げ知らせること」です。災害ならば、誰でもこの警告に従いますが、個人的なことになると、普段の信頼関係が築かれていなければ、余計なお世話としか受け取れないでしょう。
 イエス・キリストは、イスラエル人に『エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカの福音書1334)』と語りました。
 その昔、神はエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出し、アブラハムと約束を交わした「乳と蜜の流れる地」へと導かれました。しかし、彼らは自分たちを救い出したまことの神を忘れ、近隣の強国やそこで祭られている神々に頼ったのです。
 にもかかわらず、忍耐の神は、背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。(エレミヤ3:22)』と語り続けられたのです。
 これは同時に、今を生きる私たちへの「愛と希望の警告」でもあるのです。
 なぜなら、私たちは、まことの神を無視し、自分勝手な歩みをしている背信の子だからです。
 まことの神は、ご自身のもとに私たちを再び集めるために、イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのすべての罪を彼に負わせ、十字架の上で処罰されたのです。
 キリストの十字架には、神の愛と希望が溢れているのです。
 あなたを愛しておられる神の警告に耳を傾け、向きを変えてみませんか?