牧師コラム 『イエス・キリストのよみがえり』 2019年4月21日

牧師 高橋勝義

60歳の誕生日を「暦が一巡するまで長生きした」、そして「もう一度生まれたときに戻る」ということで、お祝いするのが「還暦祝い」です。

本当に、新しく生まれ変われれば、いいのですが…。

イエス・キリストは、約2000年前、十字架の上で死なれました。
この裁判を行ったピラトは、イエス・キリストを「死刑だ」と訴える民衆に向かって、「彼には、死に値する罪が何も見つからない(マタイ23:22)」と宣言しています。むしろ、「ねたみ」からイエス・キリストを訴えていることを知っていました。
イエス・キリストは「無実」であるにもかかわらず、十字架で処刑されたのです。それは、世界中の人々の罪を身代わりに負い、その贖いのためでした。
しかし、聖書は、キリストは三日目に死からよみがえったと語り、多くの人々が、よみがえったイエス・キリストを目撃しています。
人間の理性と常識では、理解できないことですが、天地万物を創造された神には、不可能なことは何一つありません。
十字架刑を受ける前、イエス・キリストは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と約束して下さいました。
その約束どおり、私たちのを赦し、新しいいのちに生きる者にするために、イエス・キリストはからよみがえられたのです。
では、どうすれば、新しく生まれ変わる「新しいいのち」を手に入れられるのか?
それは『イエス・キリストが自分ののために死なれたことを信じること』です。
私たちも、イエス・キリストの復活を感謝し、心からの礼拝をささげましょう!

牧師コラム 『おおいなる勘違い』 2019年4月14日

牧師 高橋勝義

次にイエス様の所にやって来たのは、復活を否定するサドカイ人たちでした。
ユダヤ人の中にも、復活を信じる人々と信じない人々がいたのです。
彼らは、イエス様に「七人の兄弟がいて、長男が妻を迎え、子がないままに死んでしまった。モーセの教えに従って、弟たちは兄嫁を妻とするが、子がないままに死んでしまった。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」(ルカ20:27~33)と質問してきたのです。イエス様は、彼らに「『天国へ入るのにふさわしいと認められた人』が入るのです。天国は、めとることも嫁ぐこともなく、死ぬことはなく、復活の子として神の子なのです。」と答えられました(ルカ20:35,36)。
彼らは、この世の歩みと天国の歩みが全く同じであるかのように考えていたために、おおいなる勘違いをしていたのです。
それに、最も重要なことを見落としています。
それは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、神にとっては、すべての者が生きている」(ルカ20:38)です。このことをイエス様は教えられたのです。
天国は、死んだ者の場所ではなく、生きている者の場所です。

では、どうすれば、『天国へ入るのにふさわしいと認められる人』になれるのか?
それは、行いによるのではなく、イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死なれたこと、そして三日目によみがえられたことを信じることです。
そうすれば、復活するのにふさわしい者と認められ、約束として、永遠のいのちが与えられているので、天国に入ることが出来るのです。

牧師コラム 『神の民』 2019年4月7日

牧師 高橋勝義

「策士策に溺れる」とは、策略のうまい人は、策略に頼りすぎて、物事の対局を見失い、かえって失敗するという意味です。

当時、強大なローマ帝国に支配されていたイスラエル国の指導者である祭司長、律法学者たちは、ロ-マ総督にイエス様を捕らえさせようと罠を仕掛けます。
イエス様に対し「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか(ルカ20:22)」と質問します。質問と言うより策略です。
「カエサルに税金を納めなさい」と答えれば、神の教えに反している、祖国愛がないと言って非難し、逆に、「カエサルに税金を納めなくてもいい」と答えれば、ローマ帝国に対し謀反を企てていると訴えられます。
しかし、イエス様は彼らの策略を見抜いて、「デナリ銀貨にはだれの肖像と銘があるのか」と聞き返します。「カエサルです」と答えた彼らに「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と返答、彼らは黙るしかありませんでした。

ところで、イエス様を自分の罪からの救い主と信じるすべての人は、神の民とされます。ですから、この世の国籍と、天国の国籍の二つを持つことになります。
国籍を持つということは、国が責任をもって安全を守ってくれる、と同時に国民としての責任を果す義務が要求されます。
では、神の民の責任を果たすとは、どのように歩むことなのでしょうか?
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい(ローマ12:11)」
この世の価値観に流されず、神様を第一にし、御言葉に従うのが神の民です。

牧師コラム 『捨てた石が要の石に』 2019年3月31日

 牧師 高橋勝義

「しんがり」は、軍隊にはとても重要な部隊です。なぜなら、退却する軍隊の最後尾で、敵の追撃を阻止するからです。その任務には、捨て石になる覚悟が必要です。

イエス様は、人々にたとえを話されました(ルカ20:9~16)。
ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸します。収穫の時になり収穫の一部を納めさせるために、しもべたちを何回も遣わしたのですが、農夫たちは彼らを打ちたたき、何も持たせないで帰らせたのです。最後に、息子なら、きっと敬ってくれると思い、大切な息子を送ったのですが、殺されてしまった、というのです。
農夫たちとはイスラエルの指導者たち、愛する息子とは、イエス様のことです。
イスラエル民族は、神の国を待ち望む人々の模範となるために神様に選ばれた民族でしたが、その使命を逸脱し、救い主イエス・キリストを十字架刑によって殺してしまいました。では、イエス様の死は無駄死にだったのでしょうか?
決して、そんなことはありません。それどころか、希望を与えるものなのです。
それは指導者たちが無用のものとして「捨てた石」であるイエス・キリストの十字架は、私たちのすべての罪の身代わりであったこと、さらに、三日後によみがえられた復活の事実は、滅びからいのちに移される希望の「要の石」であるからです。

『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった(詩篇118篇23節)』

扇の骨を止める要のように、復活のイエス様と共に歩む人生は、人生を揺り動かすどんな出来事からも、あなたを守る「要」になります。あなたの人生に、イエス・キリストを「要」として迎え入れ、新しい、希望の歩みを始めませんか?

牧師コラム 『ヨセフ物語(後半)』 2019年3月24日

牧師 栗原延元

波瀾万丈のヨセフの生涯のクライマックスは、ヨセフと兄たちの再会の場面です。〈ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟ヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」〉(創世記45章4~5節)
聖書の巻頭の書である創世記の最終章50章には、〈ヨセフは彼らに言った。「恐がることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。〉(創世記50章19~20節)
このヨセフ物語は、新約聖書のイエス・キリストの福音に通じています。ヨセフは、自分に悪をたくらんだ兄たちを赦しましたが、父なる神は、イエス・キリストを十字架につけて殺した人類の罪を完全に赦しておられるのです。それはイエス・キリストの復活の事実が語っている福音なのです。

アーメン

牧師コラム 『権 威』 2019年3月17日

 牧師 高橋勝義

ノーベル賞は、1901年から始まった世界的な「権威」ある賞です。
ですから、受賞した人の発言や書物は、注目され、大きな影響力を持ちます
イスラエルでは神について教える時、祭司長、律法学者、長老たちは、先祖たちの教えによって、それを絶対的な権威あるものとして、人々に教えていました。
ところが、人々は、イエス様が神について語る教えに驚きました。
なぜなら、イエス様は「律法学者たちのようにではなく、御自身が権威ある者として教えたからです。(マルコ1:22)」
民の指導者たちはイエス様に、「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」と質問しました。
イエス様も彼らに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか」と質問しました。それに答えたなら自分も答えるというのです。
彼らは、互いに論じ合いますが、ついには人々の反応を恐れて「どこから来たのか知りません」と答えました。
イエス様も「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と答えました。(ルカ20:1~8)
イエス様は神のお姿を捨てて、人となってこの世に来られたまことの神ですから、「先祖の教え」という借りものに依存する必要は全くなかったのです。
さらに、神の権威によって人を支配するのではなく、友(私たち)のために十字架でご自分のいのちを捨てる、大きな愛を持っておられる権威者なのです(ヨハネ15:13)。

牧師コラム 『祈りの家』 2019年3月10日

牧師 高橋勝義

 明日に期待し、良い未来があるようにと人は祈りをささげます。
イエス様が、エルサレムにある神殿に入られた時の出来事です。(ルカ19:41~48)

 イスラエル人は、毎年神を礼拝するためにエルサレムの神殿に出かけて行くのですが、聖なる神を礼拝する時には、自分の罪の贖い(あがない)をしなければなりません。そのためには献げ物(いけにえの動物)が必要でした。
しかし、遠方からエルサレムに向かう人々には、動物を連れて行く旅は大変です。
そこで、神殿で動物を売る人々や両替商が現れたのです。
いつしか、祈りの家であるはずの神殿は商売の場となり、不当な利益を得る場所になってしまい、それを憂えたイエス様は、商売人たちを追い出し始めたのです。
神は、『今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。(Ⅱ歴代誌7:15,16)』と語っておられます。
神殿は、お金儲けの場ではなく、祈りをささげる場です。
イエス・キリストご自身が十字架で罪の犠牲となってくださったので、私たちのすべての罪が赦されること、日々神の恵みに守られていることへの感謝、また、心の内にあるすべてを神に注ぎ出して祈るのです。どのように祈って良いか分からない時も、私たちの内におられる聖霊が、祈りを導いてくださるのです。
私たちを愛してやまない、まことの神がすべてにおいて最善をして下さると信じる信仰をもって祈ることが大切なのです。
あなたは祈る時、どこに向かって、どのように祈っていますか?

牧師コラム 『主がお入り用なのです』 2019年3月3日

牧師 高橋勝義

 「あの人は、箸にも棒にもかからない」と言われたら、悲しいですよね。
反対に、「あの人にすべてを任せておけば大丈夫」と言われたら、嬉しいですよね。
誰でも、『自分を必要とされたい』と思うものです。
イエス様はエルサレムに向かう途中、二人の弟子に、まだだれも乗ったことのない子ロバを連れてくるように命じます。
当然、ロバの持ち主たちは「どうして子ロバをほどくのか」と尋ねましたが、イエス様の指示通りに弟子たちは「主がお入り用なのです」と答えました。
二人の弟子は、無事、ロバの子を連れて来ることが出来ました。
そして、弟子たちは自分の上着をロバの背に掛けて、イエス様をお乗せしました。
イエス様が進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷き、喜びのあまりに大声で「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」と神を賛美し始めたのです。(ルカ19:29~38)
まだ何の役にも立たないと思われる子ロバを、イエス様は用いられたのです。
イザヤ書43章4節に「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたし(神)はあなたを愛している。」とあります。これは、『家柄、財産、地位、才能などがあるから「高価で尊く、愛する」のではなく、ありのままの私たちを「高価で」なおかつ「愛している」と、まことの神が、言って下さる。』という意味です。
イエス様は、あなたをかけがえのない存在として認めてくださるから「主がお入り用なのです」とあなたに語るのです。この招きを真摯に受け止めイエス様に従いましょう。

牧師コラム 『神の国への備え』 2019年2月17日

牧師 高橋勝義  

 イエス様は、ご自分が再び地上に戻って来られる(再臨)時まで、私たちがどのように過ごすべきかを教えるために、一つのたとえを話されました(ルカ19:1128)
 ある身分の高い人が、王位を受けるために遠い国に旅立つ時、しもべたちに十ミナのお金を与え、これで商売をするように命じます。身分の高い人とは、十字架に向かって進んで行かれるイエス様ことであり、商売を命じられたのは私たちのことです。イエス様は、王位を受けて帰って来た時(再臨)、しもべたちを呼び、もうけ話しを聞きます。そして彼らに「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だった。(ルカ19:17)」と褒めるのです。ところが、ご主人を恐れ、お金を失わないように布に包んでしまっていたしもべには、悪い評価が下されたのです。
 イエス様が「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため(ルカ5:32)」と語ったように、今は救いの時です。
 しかし、イエス様が再びこの地上に来られると、さばきが行われるのです。
 再びこの地上に来られるまでのこの救いの時に、イエス様は、神の国の福音を私たちにゆだねられたのです。そして、私たちが、神の国の福音を宣べ伝える働きが出来るようにと、一人一人に「賜物」を与えてくださったのです。
 また、イエス様を信じるすべての人に内住しておられる聖霊が、私たちを励まし、助け、時には戒め、賜物が生かされるようにと導いてくださるのです。
 賜物に優劣はなく、忠実に用いる時に神の称賛が与えられるのです。
 あなたに与えられている賜物を布に包まず、聖霊にゆだね、用いましょう。

牧師コラム 『ザアカイ』 2019年2月10日

牧師 高橋勝義  

 今日はルカの福音書19章に登場する「ザアカイ」の話しです。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていましたが、ローマ帝国は、税金を集める方法として、支配している国の人々を取税人に任命し、納税させていました。
しかも、いくら徴収するかは取税人にまかせ、一定額をローマに納めれば良いというきまりでしたから、当然のように取税人たちは必要以上のお金を取り立てました。
 「憎まれっ子世にはばかる」のたとえの如く、取税人は、嫌われ者・厄介者でした。ザアカイはその取税人のかしらでしたから、人々は彼に近寄らず、いつも孤独でした。
 その彼がイエス様のうわさを耳にし、近くを通られるお姿を見ようとしたのですが、背の低い彼は群衆に阻まれ、やむなくいちじく桑の木に登りました。
 イエス様はその場所に来ると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と言われたのです。
 人々は「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。
 当のザアカイは、自分の名が呼ばれたことにも驚きましたが、ありのままの自分をすべて受け入れて下さるイエス様の愛に触れ、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と約束したのです。彼の人生は、この瞬間から全く新しくされたのです。
 イエス様は、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」と語られたように、まことの神から離れ、自分中心の歩みをして、さ迷っているあなたを捜し、救うために、この世に来て下さったのです。