牧師コラム 『神の国への備え』 2019年2月17日

牧師 高橋勝義   

 イエス様は、ご自分が再び地上に戻って来られる(再臨)時まで、私たちがどのように過ごすべきかを教えるために、一つのたとえを話されました(ルカ19:1128)
 ある身分の高い人が、王位を受けるために遠い国に旅立つ時、しもべたちに十ミナのお金を与え、これで商売をするように命じます。身分の高い人とは、十字架に向かって進んで行かれるイエス様ことであり、商売を命じられたのは私たちのことです。イエス様は、王位を受けて帰って来た時(再臨)、しもべたちを呼び、もうけ話しを聞きます。そして彼らに「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だった。(ルカ19:17)」と褒めるのです。ところが、ご主人を恐れ、お金を失わないように布に包んでしまっていたしもべには、悪い評価が下されたのです。
 イエス様が「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため(ルカ5:32)」と語ったように、今は救いの時です。
 しかし、イエス様が再びこの地上に来られると、さばきが行われるのです。
 再びこの地上に来られるまでのこの救いの時に、イエス様は、神の国の福音を私たちにゆだねられたのです。そして、私たちが、神の国の福音を宣べ伝える働きが出来るようにと、一人一人に「賜物」を与えてくださったのです。
 また、イエス様を信じるすべての人に内住しておられる聖霊が、私たちを励まし、助け、時には戒め、賜物が生かされるようにと導いてくださるのです。
 賜物に優劣はなく、忠実に用いる時に神の称賛が与えられるのです。
 あなたに与えられている賜物を布に包まず、聖霊にゆだね、用いましょう。

牧師コラム 『ザアカイ』 2019年2月10日

牧師 高橋勝義   

 今日はルカの福音書19章に登場する「ザアカイ」の話しです。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていましたが、ローマ帝国は、税金を集める方法として、支配している国の人々を取税人に任命し、納税させていました。
しかも、いくら徴収するかは取税人にまかせ、一定額をローマに納めれば良いというきまりでしたから、当然のように取税人たちは必要以上のお金を取り立てました。
 「憎まれっ子世にはばかる」のたとえの如く、取税人は、嫌われ者・厄介者でした。ザアカイはその取税人のかしらでしたから、人々は彼に近寄らず、いつも孤独でした。
 その彼がイエス様のうわさを耳にし、近くを通られるお姿を見ようとしたのですが、背の低い彼は群衆に阻まれ、やむなくいちじく桑の木に登りました。
 イエス様はその場所に来ると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と言われたのです。
 人々は「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。
 当のザアカイは、自分の名が呼ばれたことにも驚きましたが、ありのままの自分をすべて受け入れて下さるイエス様の愛に触れ、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と約束したのです。彼の人生は、この瞬間から全く新しくされたのです。
 イエス様は、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」と語られたように、まことの神から離れ、自分中心の歩みをして、さ迷っているあなたを捜し、救うために、この世に来て下さったのです。

牧師コラム 『わたしに何をして欲しいのか』 2019年2月3日

 牧師 高橋勝義   

 「私に何をして欲しいのか」と尋ねる人がいたとしたら、どうしますか?
 相手にもよるのでしょうが、自由に何でも願い事を言えるでしょうか…。
 聖書には、イエス様からこの質問を受けた盲人の記事が記されています。
 この盲目の人は、道端に座り、物乞いをしていたのですが、周りが騒がしいので、「これはいったい何事か」と尋ねました。そして、ナザレ人イエスがお通りになると知ると、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び続けました。そんな彼に、イエス様が「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねたのです。彼は、即座に「主よ、目が見えるようにしてください」と答え、イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と言われたのです。すると、すぐに目が見えるようになり、彼は神をあがめながらイエスについて行ったのです。
 彼の姿を見たイエス様には、その願いは察しがつきます。それなのに、なぜ、あえて尋ねたのか…。それは、彼の本心を引き出し、確認させるためでした。
 人は、質問する相手の腹の中を探ります。警戒しながら色々考えますから、初めから素直にはなれません。しかし、これは痛い目に遭わないための処世術でもあります。
 盲目の彼は、自分の置かれている現実を自覚し、そのうえで、イエス様なら必ず自分を救って下さると信じて、願いをストレートに訴えたのです。

 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる(詩篇34:18)」と聖書に約束されている通りです。
 あなたも、心の中にある色々な思いをストレートに、イエス様にぶつけてみませんか?

牧師コラム 『陽はまた昇る』 2019年1月27日

 牧師 栗原延元

 

 今日は、昨年11月に続いてヤコブを学びます。ヤコブは双子の弟で、兄はエサウでした。本来、兄エサウが継ぐべき家長の相続を、兄エサウをだまして自分のものとしてしまいました。そこから兄弟同士の相克が始まります。ヤコブは兄エサウの殺意を逃れて、母リベカの親戚に身を寄せ、そこで20年すごします。ヤコブにとって最大の課題は兄との仲直りであったのです。ヤコブの物語は創世記32章に入ってクライマックスに達します。
 ヤコブは兄エサウに当時としては最も大きな贈り物を送って兄と仲直りしようとするのですが、ヤコブの心の中は、兄への怖れで一杯でした。その不安と苦悩のためにヤボク川の渡し場にひとり残るのです。その夜〈ある人が夜明けまで彼と格闘した〉(3422)
 この格闘とは、夜を徹してのヤコブの祈りでした。聖なる神の御前に、神ご自身と格闘する程にヤコブは〈祝福〉を求めて祈ったのです。ヤコブから離れようとするその人に〈私はあなたを去らせません。私を祝福してくだらさらなければ〉とヤコブは祈るのです。この祝福とは、ヤコブの父祖、アブラハム、イサクたちが求めた天の故郷に入ることです。この地上にある故郷ではなくさらにすぐれた故郷です。
 その故郷を見上げるヤコブの信仰の目なざしがハッキリとしたのです。彼の日々の歩みの上に陽は昇り続けるのです。

牧師コラム 『神にはできる』 2019年1月20日

牧師 高橋勝義   

 「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という若い指導者の質問に、イエス様は「神の教えを守るように」と答えました。
 しかし、「それらはすべて守っています」と断言する彼に対し、イエス様は「あなたの財産をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と語られたのです。これを聞いたその人は、非常に悲しみ、去って行きました。なぜなら、彼は大変な金持ちだったからです。さらに、イエス様は言われました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」
 人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう」と驚きました。
 しかし、イエス様は『人にはできないことが、神にはできるのです』と言われました。
 イエス様に質問した青年の拠り所は、自分の正しい行い、そして財産でした。どちらも真面目に生きてきた証です。
 しかし、イエス様は、彼の心にある大切なものをも手離すように、すなわち、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか(マタイ16:26)」と語っているのです。

 「永遠のいのち」は、行いによっては決して得ることが出来ません。

 神の教えを完璧に守ることは、誰一人として出来ないからです。
 ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって(イエス・キリストの十字架は自分の罪の肩代わりであることを認める)人は救われ、「永遠のいのち」が与えられるのです。
 すべてが、神の成される御業であり、恵みであり、賜物(プレゼント)なのです。

牧師コラム 『祈りの姿勢』 2019年1月13日

 牧師 高橋勝義   

 祈りは、「苦しい時の神頼み」ではなく、まことの神との霊的な交わりであり、会話です。それは呼吸と同じで、生きるために不可欠なものなのです。
 ですから、イエス・キリストは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」二つのたとえを話されました。

 その一つは、不正な裁判官のたとえ話しです(ルカ18:18)
 裁判官は、ひとりのやもめの訴えが、あまりにもうるさくて仕方がないために、彼女のための裁判をすることにしたというのです。
 イエス様は、このやもめのたとえから、あきらめずに神に期待して祈り続けることの大切さを教えられたのです。しかし、祈り続けることは、容易ではありません。だから、神が良くして下さった恵みの数々を思い出す時(103:2)、感謝と喜びが沸き上がり、その神に期待して祈り続けることが出来るのです。

 二つ目は、二人の人物の祈りのたとえ話しです(ルカ18:914)
 一人はパリサイ人で、彼は自分の行いの正しさを神に訴える祈りでした。もう一方の取税人は、遠く離れて立ち『神様、罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。
 イエス様は、神に義と認められたのは取税人の祈りであると言われました。なぜなら、取税人は、神を畏れ、神の前にへりくだっていたからです。
 そして、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ18:14)」と語り、謙遜の大切さを教えられたのです。

 神は、 神を畏れ、神に期待して祈る人を待っておられるのです。

牧師コラム 『三つの問いかけ』 2019年1月6日

牧師 高橋勝義

 年の初めである元旦に、目標や計画を立てることは大切です。

 さて、パリサイ人たちに「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたイエス様は、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:20,21)」と答えられました。このイエス様の答えには、まことの神が、あなたに問いかけておられる大切な三つのことが隠されています。

 第一は、まことの神をどれくらい意識して生活しているか、です。
 喜ぶ時はもちろん、無力さを覚える時には、素直にそれを認め、神に頼る(祈る)ならば、神の平安と助け、そして守りの中で日々を過ごすことができるのです。

 第二は、突然やってくる世の終わりへの備えをしているか、です。
 私たちは、明日は今日と同じようにやって来る、と疑わずに眠りにつきます。しかし、聖書には私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日後によみがえり、天に帰られたイエス・キリストが再び地上に来られる(再臨)と、はっきり記されています。
救いの扉は、この再臨の時に閉じられるのです。

 第三は、神の国(天国)に入る確信を持っているか、です。
 イエス・キリストの十字架は、神から離れ、背を向けて歩んでいる私の罪のためであると信じる者には、『永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24) 』と聖書は約束しています。

 今年の計画の中に、神からの三つの問いかけを加えてみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『信仰とは…』 2019年1月1日

 牧師 高橋勝義

 「鰯の頭も信心から」とよく耳にしますが、これは昔、節分の夜にヒイラギのトゲと鰯の悪臭で鬼や悪を払うことが出来ると信じられていたことから、鰯の頭のようなつまらないものでも信じる人には、有り難いものになる。つまり、何を信じるかではなく、信心が大切だということを言っているようです。

 イエス様が、エルサレムに向かう途中のことでした。ハンセン病をわずらっていた十人の人が「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と声を張り上げて、助けを求めました。イエス様は彼らに「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われ、彼らはその言葉に従い祭司のところに行きました。ところが、その途中で癒されたのです。癒やされた十人の中で、引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏し、感謝したのはサマリア人ひとりだけでした。イエス様は、その彼に『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』と言われたのです。

 この出来事は、『信仰とは何か』を三つの観点から教えています。
 第一は、疑わずに信じて求めることです。
 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という思いではなく、心をしっかりと定めて願う信仰が求められているのです。
 第二は、御言葉に信頼することです。
 イエス様から「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われた時に、自分の経験や知識に頼らず、また超自然的な奇蹟を渇望するのでもなく、素直に主のことばを信じ、従う信仰が求められているのです。
 第三に、神を信じることです。
 「神にとって不可能なことは何もない」お方を信じるのです。
 信仰とは、信じるお方と何を信じるかがとても重要なのです。

牧師コラム 『赦 し』 2018年12月30日

 牧師 高橋勝義   

 今年も残り2日です。あなたにとって、今年はどんな年だったでしょうか?
 楽しかったこと、その反対に腹立たしいこともあったことでしょう。
 イエス・キリストは、『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。(ルカ17:4)』と語っています。
 人との関わりの中で生きている私たちは、多少の差はあっても、人間関係でつまずいた経験が必ずあるはずです。しかし、誰かをつまずかせたことよりも、自分が傷つき、つまずいたことの方をよく覚えているものです。その時の心の状態を思うと、苦々しさが湧いてきて、とても「赦す」ことなど考えられません。
 それなのに、イエス・キリストは、「赦しなさい」と命じておられます。
 イエス・キリストは、全く罪のないお方であるのに、十字架刑を受けました。そして、今まさに、息を引き取ろうとしているその瞬間『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)』と言われました。
 『彼ら』とは、愛の神から離れ、自分中心に生きている私たち自身のことをも言われたのですが、『彼ら(私たち)は自分がどんな歩みをしているのか、全く分からないまま生活しているのです。』ととりなしてくださったのです。
 イエス・キリストの十字架は、自分中心に生きてきた罪を認め、『ごめんなさい』と悔い改めた者に、赦しの道、新しい人生へと導いてくださるのです。
 あなたは、憎しみと恨みを残したまま年を越しますか?
 十字架の赦しを受け取り、神の助けによって自らも赦す人生へと歩んではいかがでしょうか…。

牧師コラム 『キリストのいのち』 2018年12月16日

牧師 高橋勝義

 最近、巷では「寿命100年時代をどう生きるか?」が話題になっています。
 しかし、どんなに寿命が延びたとしても、その先に待っているものは変わりません。
 さて、イエス・キリストは生まれる約700年も前に、その誕生が預言されていました。その聖書の預言には『(救い主イエス・キリストは) 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。(イザヤ42:3)』と記されています。この社会では、役に立たなければ、相手にされず、心は元気を失い、毎日が、憂鬱で、外にも出たくなくなります。まさに『傷んだ葦』『くすぶる灯芯』そのものです。
 人となってこの世に生まれたイエス・キリストは、ご自身も多くの試みを受け、苦しまれたお方です。人の痛みを本当に知っておられるお方ですから、このような弱さを覚える私たちを慰め、励ますことができるのです。
 では、『真実をもってさばきを執り行う』とは、どのような意味なのでしょうか?
 多くの人は、死後どこに行くのか、という問題を考えないようにして生きています。
 キリストがこの世に来られたのは、『世(あなた)をさばくためではなく、御子によって世が救われるため(ヨハネ3:17)』なのです。さばきの原因は、私たちを愛しておられる神から離れ、自分中心に生きている罪なのですが、この罪の刑罰をキリストは、身代わりに負い十字架の上で死んで下さったのです。
 ですから、この事実を受け入れ、キリストを罪からの救い主として信じるなら、そのさばきから救われるのです。寿命100年時代を遥かに超える永遠のいのちを与えて下さるお方、イエス・キリストがこの地上に来て下さったクリスマス。
 救い主のお誕生を心からお祝いしましょう。