牧師コラム 『不信仰な曲がった今の世だ』 2018年2月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストは、『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ』と嘆かれました。
 曲がった今の世とは、元に戻らないくらい歪んでいる世ということです。
 何が歪んでいるのか。それは、天地万物を造られたまことの神がおられるにもかかわらず、その神を神として認めず、感謝もせず、それどころか、自分たちで作り、信仰している私たちの心の状態のことを言っているのです。
 イエス・キリストは、何に嘆かれたのでしょうか。それは、弟子たちの不信仰と、まことの神を信じようとしない人々の不信仰に対してです。
 歪みの原因は、まことの神から離れ、背を向けて歩む罪にあるのです。
 歪んだ歩みをしている私たちに対して、聖書は『人の心は何よりも陰険で、それは直らない(エレミヤ17:9)』と語っています。

 果たして、元に戻る道があるのでしょうか。

 イエス・キリストは、世(あなた)を救うために、ただ一度、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれたのです。それは、『わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです(ヨハネ12:47)』。
 イエス・キリストのいのちと引き換えに、罪が処罰されたので、罪から解放されるのです。この事実を信じるすべての人の歪んだ心は元に戻るのです。
 この事実を信じないなら、『ああ、不信仰な、曲がった世』のままであり、あなたの心は陰険なままです。
 それゆえ、イエス・キリストの嘆きには、あなたに歪んだままの歩みを続けて欲しくないという願いが込められているのです。

牧師コラム 『変貌されたイエス』 2018年2月11日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。
 そして、祈っておられると御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝き、その姿が変貌されたのです。
 弟子の一人であるペテロは、イエス・キリストの変貌に驚き、訳の分からないことを言い出しました。毎日見ている姿とは、全く違っていたからです。
 神であるのに、真の人となってこの世に来られたイエス・キリストが、まことの神であることを明らかにされたのです。

 「神が人となる。」人間の理性ではとても理解できないことです。

 しかし、聖書は『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:68)』と語っています。
 神の愛は、私たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、人のすべての罪をイエス・キリストに身代わりとして負わせるほど深い愛なのです。
 ですから、人間の理性を遥かに超えているのは、当然のことなのです。
 十字架は、神に背を向けた私たちの歩みが誤りであることを示し、私たちに、神と共に歩む正しい歩みへと導く、神の愛のしるしなのです。
 そして、『実に十字架の死にまでも従われた』イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられました。人として歩まれたイエス・キリストは、私たちの苦しみや悩みをよく御存知です。
 このお方が、いつもあなたのかたわらにいて下さるのです。

牧師コラム 『エデンの園にて』 2018年2月4日

牧師 栗原延元     

 前回は創世記1章を学びました。今回は2章を学びます。ここには創造の秩序としての人の役割が詩的に述べられています。
 〈神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。〉(創世記2:15)。エデンの園は、この地上のユートピア(理想郷)であると思われますが、人にはこの園を耕やし、それを守る責任が与えられているのです。人は何もしなくてよいのではないのです。創造主の御手のわざである自然をマネイジする使命があります。
 マネイジするとは管理する、運用するの意味ですが、それは造り主の意図に従ってしなければなりません。管理者が自分の好き勝手にしてよいとなるならば、自然の秩序は破られてしまいます。ですから人は造り主の意図に沿って自然を管理しなければなりません。
 神である主は人に命じて仰せられるのです。その命令が21617節に記されています。人がそのみことばを守ることが重要なのです。「人はパンのみにて生きるのではありません。神の口より出るみことばによって生きるのです。」と主イエスが語られました。この神のことばを信じる信仰によって、人は生き、かつ、自然の調和が保たれるのです。

牧師コラム 『わたしについて来なさい』 2018年1月28日

 牧師 高橋勝義     

 作家武者小路実篤は、「この道より、我を生かす道はなし、この道を歩む」と語りました。人は、自分を生かす道を探し求めながら歩んでいるのです。
 しかし、その道を見つけ出せず葛藤しながら、生きているのも、また現実です。
 イエス・キリストは、『誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)』と語りました。
 「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」とは、どのような意味なのでしょうか…。
 自分を捨てるとは、まことの神に背を向けて自分中心に生きること()を止めることです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に方向転換するのです。
 そのために、イエス・キリストが、私たちの罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。十字架が、自分の力で生きる歩みから、まことの神とともに生きる歩みへと方向転換させてくれるのです。
 神に頼る生き方は、人生の敗北者のように感じますが、そうではありません。
 本来のあなた自身が現わされ、生き生きと生きていくことができるのです。
 そして、まことの神が、あなたに与えている使命を明らかにしてくれるのです。
 日々自分の十字架を負うとは、まことの神が自分に与えている使命を自覚して、その使命をどうすれば果たせるか、日々格闘しながら歩むことを指しています。
 これが、自分の十字架を負うことの意味であり、十字架の道は、あなたを生かす道となるのです。
 ですから、イエス・キリストは、『わたしについて来なさい』と語るのです。

牧師コラム 『五つのパンと二匹の魚』 2018年1月21日

 牧師 高橋勝義    

 弟子たちが神の国を宣べ伝え、病をいやしたと聞いた人々は、イエスのもとに集まって来ました。熱心にイエスの話しを聞くうちに、いつのまにか日は暮れ始め、弟子たちは群集を解散させて、それぞれで宿をとり食事を取らせるように主にお願いしました。
 ところが、イエスは弟子たちに「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。しかし、彼らは「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。(ルカ9:13)」と答えたのです。
 そう答えるのには、訳がありました。
 そこはへんぴなところであり、男だけでもおおよそ5千人もいたからです。どう考えても群集に何か食べ物を用意することは出来ません。
 これを聞いたイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にしてすわらせるように命じます。さらに、全員が座ったのを確認すると、五つのパンと二匹の魚を手に取り天を見上げ、祝福してパンを裂き、群集に配るように命じました。
 人々はみな食べて満腹し、なおかつ余ったパン切れは十二のカゴいっぱいでした。
 弟子たちは、神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされた時、イエスから「力と権威」を授けられたことを、この時すっかり忘れていたのです。
 弟子たちに「力と権威」を授けることのできたイエス・キリストにとって「五つのパンと二匹の魚のほかには何もない」は、神の祝福の始まりなのです。
 私たちの日常にも、「~しかない」と思うことは、度々あります。
 しかし、イエス・キリストに信頼して歩むならば、「~しかない」のではなく「~がある」に変わるのです。
 それはイエス・キリストが窮地を祝福に変えて下さる、力あるまことの神だからです。

牧師コラム 『神が下さる平安』 2018年1月14日

 牧師 高橋勝義     

 主イエス・キリストは、『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と人々に福音(良きおとずれ・Good News)を語りました。
 この福音を伝えるために、十二弟子たちをつかわす時、主は彼らにあらゆる悪霊を追い出し、病気を直す力と権威をお授けになりました。
 そして、旅のためには何も持って行かないこと、また人々が福音を受け入れない場合、その町を出て行く時には足のちりを払い落とすこと、更に町や村に入り、誰かの家に入る時には「平安を祈るあいさつ」をするようにと弟子たちに命じられました。
 すべての必要はまことの神が備えて下さる、人々の反応に一喜一憂しないことを弟子たちに前もって教えられたのです。
 人は、様々な人生の重荷を負って歩み、大なり小なり不安と恐れを常に抱いているものです。更に人間関係の葛藤も重なり、平安な日々を送りたいと願い求めているのに、苦しみもがいています。

 ですから、イエス・キリストは、行く先々で「平安を祈るあいさつ」をするように弟子たちに命じたのです。イエス・キリストの平安とは、天地万物を造られたまことの神が与えるもので、それはすべての必要を知っておられる愛の神が、私たちの人生を導き、常に私たちのかたわらに寄り添い、歩んで下さるという平安です。
 この平安は、福音を受け入れた者に与えられるのです。
 本当の平安を持つ秘訣は、あなたを愛してやまない神を信じ、神に頼る生き方をすることです。
 あなたもこの神を信じる一歩を踏み出してみませんか?

牧師コラム 『初めに神が天と地を創造した』 2018年1月7日

牧師 栗原延元     

 聖書は〈初めに、神が天と地を創造した〉と書き始めます。まさに神は森羅万象の創造主です。この聖書の宣言は幕末の一人の青年武士の人生を一変します。彼は日本国の存在と己の人生の目的を、この聖書を学ぶことに賭けるのです。
 その青年とは、同志社大学の創立者、新島襄です。彼がここから学んだ真理の第一は、人間が造ったものは神ではないという事です。神棚も仏壇も神ではない。自然そのものも神ではない。人間も神ではない。私どもの目に見えるものは神ではなく、神によって造られた、被造物である。それが聖書が冒頭から語っていることです。まさに詩人が〈天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる〉(詩篇191)と賛歌しているとおりです。
 次に被造物には創造者の意志とそれらを造った目的があるという真理です。人はいろいろなものを作ります。ボールペン、鉛筆などの書きもの、衣類などの着るもの、時計などそれぞれの機能を持ったものを作りますが、その目的は人間の役に立つためです。人間が神に造られたのは、人の生きる目的が「神の栄光」のためなのです。

牧師コラム 『新たなる旅たち』 2017年12月17日

 牧師 高橋勝義

 マリヤは、聖霊によって男の子を宿します。しかし、人々はそれを受け入れることが出来ませんでした。婚約者のヨセフも同様に、悩み苦しんでいました。
 ヨセフは、主の使いが夢に現れて「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:20,21)」と語られたので、マリヤを受け入れます。
 そこに、ローマ帝国の皇帝アウグストから世界中に住民登録をせよという勅令が出ます。住民登録をする場所は、今住んでいるところではなく、出身地で行います。
 ヨセフの出身地は、ベツレヘムなので、ナザレから直線距離で110㎞の旅となります。普通の旅でも、多くの困難が待ち受けているところに、身重のマリヤを連れての旅ですから、二人にとって、とても厳しい旅です。
 一見するよ、無慈悲な神のように感じてしまいます。
 ところが、この旅は、夫婦としての絆を深めるのにとても重要であり、彼らを守る旅でもあったのです。なぜなら、ナザレでイエス・キリストが生まれていたならば、人々から厳しい目で見られることとなり、二人には、居場所がなかったからです。
 この旅は、まことの神の御配慮に満ちた愛なのです。
 この愛に守られ、二人は、新たなる旅立ちをすることが出来たのです。
 『神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。       (ローマ8:28)

牧師コラム 『インマヌエル』 2017年12月10日

牧師 高橋勝義     

 今から約2700年前、預言者イザヤは、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:13)」とまことの神から託された言葉を語りました。
 『インマヌエル』とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。
 天地万物を創造され、人間をも造られたお方は私たちを愛し、私たちと関わりを持ち、共に歩んでいきたいと思っておられるまことの神です。ところが当の私たちは、この神に近づくすべを知らず、それどころか神から離れ、自分勝手な歩みをしています。
 しかし、そんな私たちも、圧倒的な大自然の美しさを見る時、また緻密で想像をはるかに超えた人体の仕組みを知る時、これらを設計されたお方がいるのではと感じます。
 こんなちぐはぐな私たちを神はあわれみ、神と人との隔ての罪を取り除くために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされました。これがクリスマスです。
 神と人とを隔てる罪を、神はイエスに負わせ、十字架で処罰しました。
 神は、このイエスを信じ、罪ゆるされた者とともに歩んでくださるのです。
 十字架は、まことの神の愛のしるし『インマヌエル』なのです。
 イエスの弟子ヨハネは、「これらのことが(聖書に)書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」と語っています。
 友が遠くから訪ねて来てくれることは、とても嬉しいことで、積もる話が尽きず、一晩中、語り合うことでしょう。ならば、天からあなたのもとに来られたイエス・キリストと語り合ってみませんか。
 イエス・キリストは、あなたを待っておられます。

牧師コラム 『とこしえの神の愛』 2017年11月26日

 牧師 高橋勝義   

 聖書の冒頭には「初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)」と記されています。
 神が造られた世界を見たダビデは、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8:35)」と驚きの声とともに創造主なる神をほめたたえています。
 人は、誰でも自分の存在を認めて欲しいと切に願っています。
 しかし、私たちは自分を正しく評価してくれない社会や人に対して、失望し、怒りや恨み、そして、憎しみと妬みを持ちます。これが、心を閉ざしたり、あるいは攻撃的な行動になったりします。
 これらは、どちらも、健全ではありません。
 ところが、創造主の神は、いつもあなたを顧みて下さる(注目して下さる)お方です。
 この神の愛に触れたダビデは、驚き、感激し、自分という存在をこの神の愛によって受け入れることが出来たのです。
 ですから、「栄光と誉れの冠」を与えて下さっていると表現したのです。
 ダビデが感じた神の愛は、創造の初めから、今に至るまで、これから先も全く変わることなく、国境を越え、人種を越え、分け隔てなく私たちに注がれています。
 では、私たちは、この神の愛をどのようにして知ることが出来るのでしょうか?
 聖書は、『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)』と語っています。
 神の愛のしるし、これが、イエス・キリストであり十字架なのです。