牧師コラム 『正直に、真実に神の前に生きる』 2019年8月25日

牧師 高橋勝義

神は光であり、闇が全くありません。その神が、人としてこの世に遣わした御子イエス・キリストを、私たちのすべての罪の身代わりに、十字架上で処罰されました。そして、このイエス・キリストを救い主と信じ、罪をきよめていただいた私たちは、光の神と共に歩む者、交わりをする者(親しく会話する者)とされるのです。

それゆえ、私たちはイエス様の橋渡しで、全能の神に向かってなんでも話すことができます。お祈りは神との会話であり、神の思いは、聖書に記されています。

死に値する罪が赦され、永遠のいのちに移されて、神のこども、光の子になった私たちですが、怒り、ねたみ、競争心、さばきなどの罪を犯してしまいます。
この時、私たちは、なんとかして自分の力で解決しようと頑張ってしまいやすいのです。もし、神と交わりを持ち、光の中を歩んでいるなら、私たちには闇がないはずです。闇がないというのは、偽りがないということなので、弱さも、惨めさも、愚かさも、ありのままの自分で良いのです。むしろ、犯してしまった罪を正直に神に申し上げ、認めることが大切なのです。立派な人になろうとするのではなく、正直な者になれば良いのです。なぜなら、神はそれを求め、待っておられるからです。

『もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(Ⅰヨハネ1:8~10) 』

牧師コラム 『まことの神との交わり』 2019年8月18日

牧師 高橋勝義

私たちにとって、交わり(コミュニケーション)は生きるための必要な手段ですが、そこには様々な誘惑もあります。ですから、昔から「朱に交われば赤くなる」という諺もあるほど、友を選ぶことが大切になってきます。

十二弟子の一人ヨハネは、まことの神と御子イエス・キリストとの交わりを持つことこそが、喜びが満ち溢れる秘訣であると語ります。
なぜなら、イエス・キリストは、死を解決できる唯一のお方だからです。
ここで問題がひとつ出てきます。その問題とは「まことの神」が分からないことです。日本では「八百万(やおよろず)の神々」がいるとされ、あれも神、これも神、これでは天地万物を創造されたまことの神が分からなくなるのも当然です。

ところが、ヨハネは、まことの神であり、いのちのことばであるイエス・キリストを自分の目でじっと見つめ、自分の耳で聞き、自分の手でさわった(Ⅰヨハネ1:1)と証言しています。果たして、私たちにもそんなことが可能なのでしょうか?
ヨハネが証言するお方、神の一人子イエス・キリストは、人となってこの世に来られ、この世に住みました。そして、ご自身を罪からの救い主として信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ(ヨハネ3:16)、と約束し、私たちのすべての罪を身代わりに負って十字架で死なれました。
ですから、このお方を知り、信じ、このお方と交わりを持つことこそが、真の希望を見出し、心が喜びで満たされることになるのです。

今日も、あなたのためにいのちを献げられたイエス・キリストは、あなたを友と呼び、招いておられます。

牧師コラム 『天に上げられたイエス様』 2019年8月11日

 牧師 高橋勝義

イエス・キリストがよみがえられた最初の知らせは、日曜日の朝、墓に香料と香油を持って出かけて行った女たちからでした。次に主はエルサレムからエマオの村に向かっていた二人の弟子の前に現れてくださり、彼らはすぐにエルサレムの弟子たちにこのことを知らせました。さらに、弟子たちがこれらのことを話している真ん中にイエス・キリストが立ち「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。
驚き、震える彼らに、主は「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。(ルカ24:39)」とご自分が生きておられることを示されたのです。それから、彼らの心の目を開き『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:46~47)』ことを解き明かされました。
また「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)」と、聖霊を受けることと、それまではエルサレムにとどまるようにと告げ、その後弟子たちを祝福しながら、天に上げられたのです。

聖書は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11)」と約束しています。更に、このイエス様が再び来られる時には「さばき」が行われます。そのための備えが私たちには必要です。

今は恵みの時、今は救いの日(Ⅱコリント6:2)なのです。

牧師コラム 『みことばの力』 2019年8月4日

牧師 高橋勝義

イスラエルを解放して下さるお方、と期待したイエス様が十字架で死んでしまった。
この悲しみと失望を抱えて、エマオに向かって歩く二人の弟子に、イエス様が近づき、「歩きながら語り合っているその話は何のことですか(ルカ24:15)」と声をかけ、一緒に歩き始められたのです。彼らには、それがイエス様だとは分からず、エルサレムで起こった出来事を話しました。

すると、イエス様は「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」、さらにモーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされたのです。(ルカ24:25~27)
しかし、なお二人の弟子の目はさえぎられており、このお方が、イエス様であると分からなかったのです。夕刻になり、一緒に泊まることにしたイエス様は食卓でパンを取り、神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました。すると彼らの目が開かれ、イエス様だと分かり、同時に、その姿は見えなくなりました。

その時、二人はイエス様が自分たちに聖書を説き明かし、教えてくださる間、自分たちの心が内で燃えていたことに気付かされるのです。

復活されたイエス様と私たちが出会う場所のひとつはみことば(聖書)です。
みことばにふれる時、さえぎられた心の目が開かれ、まことの神が分かるのです。
そして、みことばをただ聞くだけではなく、信じて歩む時、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です(詩篇119:105)」となっていくのです。

牧師コラム 『どうして生きておられる方を死人の中に捜すのか』 2019年7月28日

牧師 高橋勝義

週の初めの明け方早く、女たちは準備しておいた香油と香料を持って墓に出かけて行きました。問題は、墓を封印している大きな石をどうやって動かすか、でした。

ところが、石は墓からわきに転がされており、中にあるはずのイエス様のからだが見当たらなかったのです。途方に暮れる女たちの前に二人の御使いが現れ、恐れで顔を伏せる彼女たちに「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。~人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう(ルカ24:5~6)」と告げました。

イエス様のことばを思い出した彼女たちは、急いで弟子たちのところに戻り、事の次第を話すのですが、たわごとのように思えた使徒たちは、彼女たちを信じませんでした。しかし、ペテロは走って墓に行き、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見え、この出来事に驚きながら帰って行ったのです。

聖書は、イエス様のよみがえりについて「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます(Ⅰコリント15:17)」と語っています。また、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリント15:20)」とも語っています。

イエス様のよみがえりこそが、私たちの罪の贖いを完成し、新しいのちを私たちに与えるのです。そして、イエス様ご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語っておられます。

イエス様のこの招きに、あなたは、どう応答しますか?

牧師コラム 『イエス・キリストの死と埋葬』 2019年7月21日

牧師 高橋勝義

十字架につけられたイエス様は、私たちが受けるはずの罪の刑罰で死を味あわれたお方です。九時に十字架につけられ、全地は十二時頃から暗くなり、それは午後三時頃まで続いたのです。神殿の幕が真ん中から裂け、大声で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)」と叫ばれ、息を引き取られました。

百人隊長はこの出来事に、神をほめたたえ「本当にこの方は正しい人であった」と言い、群衆もみな、悲しみのあまり胸をたたきながら帰りました。
そして、ヨセフという議員のひとりが、ピラトからイエス様のからだを引き取り、まだ誰も葬られていない、岩に掘った自分の墓にそのからだを納めたのです。ガリラヤから主について来ていた女たちは、その様子を見届け、香料と香油を用意して、安息日を守りました。

この埋葬は、私たちの罪の身代わりとなったイエス様の完全な死を意味します。

パウロは、イエス様の十字架の死と私たちの関わりについて「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ6:6~8)と語っています。

キリストを救い主と信じるすべての人は、よみがえられたキリストの新しいいのちを頂いて、「キリストとともに生きる人」になるのです。
肝心なことは、古い人(自分中心に生きる)が死んでいることを受け取ることです。古い人として生き続けるのか、それとも新しい人(神中心に生きる)として生きるのかが、問われているのです。

牧師コラム 『父よ、彼らをお赦しください』 2019年7月14日

牧師 高橋勝義

総督ピラトは、イエス様が無実であるにもかかわらず、民衆の声に負け、また、自分の立場を守るために、「十字架刑」にすることを承諾しました。
十字架を背負わされ、刑場に向かったイエス様でしたが、ムチ打たれ、血だらけのからだにもはやその力はなく、代わりにそこに居合わせたクレネ人シモンが十字架を背負い「どくろ」と呼ばれている場所に向かいました。
民の指導者たちのねたみと嫉妬、また期待したメシヤではないことへの民衆の失望と怒りが、無実のイエス様を残酷でむごい「十字架刑」につけてしまいました。

薄れゆく意識の中で、イエス様は自分を十字架につけた民の指導者たちや民衆への恨みごとではなく『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34) 』と天の父にとりなしをされたのです。
また、イエス様と共に、二人の犯罪人も十字架につけられました。
ひとりはイエス様を罵り、もうひとりは自分の犯した罪を告白し、悔い改めました。その人にイエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

聖書は、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネの手紙1:9)と約束しています。自分の罪を認め、告白する者には、すべての罪を赦して下さる、これが、神の約束であり、神の愛なのです。
あなたも、あなたを愛する神に、正直に向きあってみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『イエスかバラバか』 2019年7月7日

牧師 高橋勝義

捕らえられたイエス様は、大祭司の家から総督ピラトの所に連れて行かれました。
イエス様に罪を見いだせないピラトでしたが、食い下がる訴えに負け、ちょうどエルサレム滞在中のヘロデ王のもとに、イエス様を送ったのです。
ヘロデは、噂に聞く奇跡が見られると喜びますが、イエス様はヘロデの質問に何ひとつ答えることがなく、再びピラトの所に送り返されました。
裁判は、このように一晩中続き、再度取り調べをしたピラトは、「この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」(ルカ23:15,16)と宣言しました。しかし、民衆は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)、「十字架だ。十字架につけろ。」(ルカ23:21)と叫び続けたのです。
このバラバとは、殺人と暴動を起こした犯罪者です。

ほんの6日前に、自分たちの上着を道に敷き、「祝福あれ、主の御名によって来られる方~(ルカ19:36~38)」と歓喜してイエス様をお迎えした同じ人々が、イエス様ではなく、殺人犯を特赦に選んだのです。ローマの支配から解放してくれる力強いメシヤ(救い主)を待ち望んでいた民衆は、目の前の弱々しく、惨めなイエス様をメシヤとして受け入れることが出来なかったからです。
しかし、イエス様は、父なる神の御旨に従い、私たちを救うために、苦しみと屈辱の十字架の道を黙々と歩まれたのです。
あなたを愛してやまない神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じ、愛と赦しのある新しい人生を選ぶ者になりませんか?

牧師コラム 『あなたは神の子か』 2019年6月23日

牧師 高橋勝義

イスラエルの宗教指導者たちにとって、メシヤ(救い主)は、神の選びの民である自分達を、他国の支配から解放してくれる、力強い栄光に輝くお方であるはずでした。
しかし、イエス様の言動は、先祖の教えの誤りを指摘するものでした。それ故、彼らには神を冒瀆している者と映ったのです。そして策を練り、イエス様を捕らえることに成功しました。しかし、十字架刑にするだけの証拠がありません。

そこで、彼らは、イエス様に直接こう問いただすのです。
『「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。(ルカ:67~71)』

彼らの質問の意図は、イエス様の口から神を冒瀆することばを引き出すためでした。
しかし、「あなたは神の子なのか」という問いは、イエス様に出会うすべての人が持つ問いかけでもあります。
聖書は、神のひとり子が人となってこの世に来られたと記しています。
それはイエス様が、私たちの苦しみや悲しみ、痛みを知っておられ、人が神から離れ、自分中心の歩みをすることの悲惨さも目にされたことを意味します。
神の御子がこの世に来られたということは、このお方が『どこかで私たちを見ておられる神』ではなく、私たちのそばに共におられる神であることを現しているのです。

牧師コラム 『みこころの通りに』 2019年6月16日

牧師 高橋勝義

イエス様は弟子たちを連れて、いつものように祈るためにオリーブ山に行かれました。しかし、この時の祈りはいつもとは違っていました。
イエス様の額からは、汗が血のしずくとなって地に落ちる程に、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。(ルカ22:42)」と苦しみ悶えながら祈られたのです。「この杯」とは、十字架刑のことです。

それは当時のローマ帝国の刑の中で、最も残忍でむごい刑罰でした。
囚人は両手首と両足首を釘で十字架に打ち付けられ、長時間放置され、やがて呼吸困難に陥り、死に至るのです。

では、なぜ、罪なきお方イエス様が十字架刑を受けなければならなかったのか。それは、父なる神のみこころだったからです。
私たちが神から離れ、神を捨て、自分中心に生きてきた「」をイエス様が身代わりに負い、私たちを滅びから、永遠のいのちへと移してくださるためでした。
イエス様は「ご自身が罪の身代わりとなって十字架で死ぬ」という父なる神のみこころに対して、苦しみ悶えて祈られました。
そして、ついに十字架を前にして、ご自分の正直なお気持ちを神に明け渡され、父なる神のみこころに従おうと、そのすべてをゆだねられたのです。
血の汗を流しながら祈られたイエス様の十字架は、あなたを滅びから救おうとされるあなたへの愛の現れです。
イエス様はあなたを愛し、みもとに招いておられます。