牧師コラム 『神はあなたを招いておられる』 2018年10月14日

牧師 高橋勝義     

 あなたは、だれと一緒に食事をする時に幸せを感じるでしょうか…。
 イエスとともに食卓に着いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いないのでしょう(ルカの福音書1415)」とイエスに言いました。
 これを聞いたイエス・キリストは、たとえ話をされます。

 『ある人が、盛大な宴会を計画し、大勢の人たちを招きます。宴会の時刻になったので、しもべを遣わし招いた人たちに「さあ、おいでください。用意ができました。」と知らせたのですが、人々は色々な理由をつけ断ったのです。しもべが、このことを報告すると、主人は怒り、急いで大通りや路地にしもべを行かせ、貧しい人たちや、からだの不自由な人たちを連れてくるように命じました。そして、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません(ルカ14:24)」と言ったのです。』

 主人とは、天の父なる神です。しもべとは、イエス・キリストのことです。
 イスラエル人は、救い主が来ることを教え告げられていました。
 しかし、その救い主、イエス・キリストが自分たちのところに来られたにもかかわらず、そのことばを聞こうともせず、それどころか、拒んだのです。
主人( 神)は、招きを断った人たち(イスラエル人)の代わりに、新しい人たち(私たち異邦人)を食事に招きました。
 そして、この招きは、今、あなたに届いています。
 即ち
、神に背を向け歩んでいた罪の身代わりにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは神の国の食卓に迎え入れられるのです。
 あなたを愛しておられる神の招きに応答して、神の国の食卓に着きませんか?

牧師コラム 『神の前にへりくだる』 2018年10月7日

牧師 高橋勝義     

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言は、謙遜の大切さを教えています。へりくだることは人にとって、それぐらい難しい事なのでしょう。
 イエス・キリストも、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書1411)』と語りました。
 また聖書は、「主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(Ⅰコリント4:5)」と語っています。更に、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:10)」とも語っています。
 「」とは、もちろん、イエス・キリストです。
 人の評価は、変わります。また、時代によっても、その時々の価値観によっても変わります。しかし、イエス・キリストの評価は、常に、変わることがありません。えこひいきがなく、わいろを取ることもなく、公平です。
 なぜなら、私たちの心の中のはかりごとまでもすべて御存知なお方だからです。
 このお方の前に立つならば、誰が自分の正しさを弁明できるでしょうか?
 神の前にへりくだるとは、自分の弱さを受け入れ、神の力なくしては生きていけないことを認めることなのです。
 この姿勢が、人を謙遜な者にさせるのです。
 神は、へりくだる者と共に歩まれ、その人の内には神の愛、平安、喜びが溢れ、神の栄光がその人を通して表されるのです。

牧師コラム 『愛と希望の警告』 2018年9月30日

牧師 高橋勝義     

 警告とは、「よくない事態が起こりそうなので気を付けるよう、告げ知らせること」です。災害ならば、誰でもこの警告に従いますが、個人的なことになると、普段の信頼関係が築かれていなければ、余計なお世話としか受け取れないでしょう。
 イエス・キリストは、イスラエル人に『エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカの福音書1334)』と語りました。
 その昔、神はエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出し、アブラハムと約束を交わした「乳と蜜の流れる地」へと導かれました。しかし、彼らは自分たちを救い出したまことの神を忘れ、近隣の強国やそこで祭られている神々に頼ったのです。
 にもかかわらず、忍耐の神は、背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。(エレミヤ3:22)』と語り続けられたのです。
 これは同時に、今を生きる私たちへの「愛と希望の警告」でもあるのです。
 なぜなら、私たちは、まことの神を無視し、自分勝手な歩みをしている背信の子だからです。
 まことの神は、ご自身のもとに私たちを再び集めるために、イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのすべての罪を彼に負わせ、十字架の上で処罰されたのです。
 キリストの十字架には、神の愛と希望が溢れているのです。
 あなたを愛しておられる神の警告に耳を傾け、向きを変えてみませんか?

牧師コラム 『サラの生涯』 2018年9月23日

牧師 栗原延元   

 アブラハムの妻サラの生涯を、新約聖書のヘブル書が〈信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。〉(ヘブル111112)。さらにヘブル書は語ります。〈これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。〉(ヘブル111316)。アーメン

牧師コラム 『狭い門から入りなさい』 2018年9月16日

牧師 高橋勝義     

 『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。(ルカの福音書1324)』とイエス・キリストは、私たちに語っています。しかも、これは命令です。
 また、別の箇所では『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)』とも語っています。
 この「狭い門」は、『この方以外には、だれによっても救いはありません(使徒4:11) 』と語られているイエス・キリストご自身を表しています。
 人は「死んだらどうなるのだろう…」という不安を少なからず持っているものですが、聖書は、「イエス・キリストは、私たちののために死なれ、葬られましたが、三日目によみがえられた(Ⅰコリント15:3,4)」と書き記しています。
 このことを事実として受け入れ、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われます。
 しかし、多くの人には「私ののために十字架で死んで下さった。そして、その死んだお方がよみがえる…」という良き知らせ(福音)は受け入れ難いもののようです。
 人々が求める門は魅力的に見え、誰もがそこから入って行くのですが、その先に待ち受けているのは「滅び」です。
 しかも、この「狭い門」は、永遠に開いているのではない、「入ろうとしても門を見つけ出すことができなくなる」とイエス・キリストは私たちに警告するのです。
 入ろうとしても入れなくなる前に、この「狭い門」をたたいてみませんか?

牧師コラム 『からし種とパン種』 2018年9月9日

牧師 高橋勝義     

 からしの種は0.5ミリほどの小さな種です。またパン種とはパンをふっくら膨らませるイ-スト菌のことです。からし種とパン種の共通点は、どちらも小さな種が大きくなるということです。
 聖書が「神の国」を からし種とパン種にたとえているのは、初めの小さな一歩(イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、まことの神の御支配の中に飛び込む決断)が、その人の人生に神の大きな力が働き始める第一歩になるからです。
 聖書の冒頭に『はじめに神が天と地を創造された(創世記1:1)』とあるように、まことの神が私たち人間を創造された時、私たちはこの神と共に歩んでいました。
 ところが、人は神と共に歩むことを拒み、離れてしまったのです。
 創造の初めのように、再び人がまことの神と共に歩む道を備えるために、この世に来られたイエス・キリストは時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と語りました。
 神と共に歩むために必要なことは、「神から離れ、自分中心の歩みをしている罪を認め、イエス・キリストが私の罪の身代わりに十字架の上で死んで下さったことを信じる」ことです。すると、すべてのは赦され『この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)』との御言葉の約束が成就するのです。
 この良き知らせ(福音)を信じるすべての人は、神との壁()が取り除かれ、新しく造り変えられ、新たな歩みに入り、その人の生涯に神の力が働き広がるのです。

牧師コラム 『罪を悔い改める』 2018年9月2日

牧師 高橋勝義    

 イエス・キリストは、『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書135,4)』と二度も繰り返し語られました。
 実はこの御言葉には、警告と希望の二つが語られているのです。
 警告とは悔い改めないなら滅びる、そして希望とは悔い改めるならば滅びない、です。では、何を悔い改めるのでしょうか?
聖書には、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と記されています。
 つまり、滅びとは「さばき」のことなのです。
 なぜ、死後にさばきを受けなければならないのでしょうか?
 その理由は、私たちを造られたまことの神の愛を振り切り、その神から離れ、背を向け、無視し、自分中心に歩んでいる罪によるのです。
 神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちをこのさばきから救うために、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けられたからです。
 この事実を自分のこととして受け取り、イエス・キリストが〔私の罪のために死なれた〕と信じ、自分中心の歩みから神中心の歩みへと向きを変える、これが、罪を悔い改めることなのです。
 そうすれば、さばきから救われ、「滅びない」との希望の約束を自分のものとすることができるのです。
 イエス・キリストは、警告することによって、ご自身の所にこそ希望があることを私たちに教えられたのです。

牧師コラム 『復活信仰の源流』~アブラハムの信仰~ 2018年8月26日

牧師 栗原延元

 前回(72)は、「さあ!天を見上げよ」と題して、創世記15章を学びました。今回は、創世記22章から「復活信仰の源流」と題して、アブラハムの信仰のクライマックスの出来事を学びます。
 アブラハム夫妻に待望の嫡子イサクが与えられます。アブラハムが百歳、妻サラが九十歳です。神の約束のみことばが実現したのです。この間のアブラハムの信仰がローマ書4章に録されています。〈彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムはおよそ百歳になって自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束をうたがうようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。〉そのアブラハムの信仰が試みられるのです。その試みの顛末(てんまつ)を今日の礼拝の中で学びます。
 どうぞ教会の玄関からお入りください。お待ちしております。

牧師コラム 『キリストの愛に動かされて』 2018年8月19日

牧師 高橋勝義     

 東日本大震災から七年…この間、熊本地震、そして西日本豪雨と、日本は各地で想定外の災害が起こる国になってしまいました。
 そのような中、滋賀県大津市にある近江福音自由教会は、2011年の大震災から毎年被災地支援のために石巻に来てくださっています。今年も「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(Ⅰヨハネの手紙318)」また「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ人への手紙1215)」のみことばに従い、キャラバン隊を組んで8/15 8/19迄、約1000枚のチラシ配布や駐車場の草取り、訪問など、様々な御奉仕をしてくださいました。

 イエス・キリストは、『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書1334)』と命じています。

 では、このイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのでしょうか?
 人は私たちを造られたまことの神に背を向けて離れ、自分中心の歩みをしてきました。
 聖書は、これを罪と言っています。この罪が、私たちを苦しめているのです。
 イエス・キリストは、私たちのこの罪を身代わりに負い、十字架の上でご自身のいのちをささげられ、そして三日目によみがえり、救いの御業を完成されたのです。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じるすべての者には、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われる。これが、キリストの愛です。
 近江福音自由教会の方々は、この愛に動かされ、車で約12時間の道のりを石巻まで来てくださったのです。

牧師コラム 『忠実で賢いしもべ』 2018年8月5日

 牧師 高橋勝義     

 「備えあれば憂いなし」という諺があります。
 普段から準備しておけば、いざというとき 何の心配もないという意味です。
 イエス・キリストは、たとえを話されました。そのたとえは、「主人が、婚礼に招待され出かけたが、いつ帰って来るのか分からない。主人が真夜中、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いである。」というものでした。そして、『あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス・キリスト)は、思いがけない時に来るのです。(ルカ12:40)』と締めくくるのです。
 帰りの全く分からない人を待つのは、とてもつらい事です。たとえに出てくる しもべにとっては、それが仕事ですから、辛いなどと言ってはいられません。
 彼に求められていることは、忠実さと状況を見極める賢さです。
 ところで、イエス・キリストは、「思いがけない時に再び来る」というのです。
 2000年前、地上に来られた目的は、私たちを罪から救うために十字架上で死ぬことでした。そして三日目によみがえり、天に戻られました。
 再びイエスがこの世に来られる目的は、さばきを行うためです。
しかし、イエスが再びこの世に来られるのはいつなのか、隠されているので、たとえを通して『いつ来られても良い備え』をしなさいと警告されたのです。
 では、どんな備えをすればよいのでしょうか?それは、イエスを救い主と信じ、神の子どもとして生きることです。神の子どもは、父の教え、即ち、御言葉(聖書)に忠実に聞き従って歩みます。そしてそれは、目を覚ました生き方になるのです。