牧師コラム 『熱心さからくる矛盾』 2018年6月17日

牧師 高橋勝義

 

 

 矛盾ということわざは、どんな盾(たて)でも突き通すという「矛(ほこ)」と、どんな矛でも防ぐという「盾」を同時に売ろうとしている話しから来ています。
 物事の道理が一貫せず、つじつまの合わない話しなのは誰にでも分かります。
 イエス・キリストが、パリサイ人の家の食事に招かれ時のことです。
 当時、食事の前には、手を洗う慣わしになっていたのですが、イエス・キリストは、用意された器で手を洗うことをしませんでした。
 パリサイ人は、これに驚きました。そこで、イエス・キリストは、『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています(ルカ11:39)』と語り、また、彼らの高慢な態度と偽善を非難したのです。
 これを聞いていた律法の専門家たちは、自分たちも侮辱されていると怒ります。
 すると、今度は、律法の専門家たちに『人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)』と語ったのです。
 イエス・キリストは、本来守るべきまことの神の教えよりも、いつのまにか、先祖たちの言い伝えの方を優先するようになっていることを非難したのです。
 彼らは、イエス様の忠告を受け入れられません。
 なぜなら、熱心が暴走し、自分たちの考えこそが正しいとなり、自らの姿が見えなくなっていたからです。
 ですから、聖書は「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい(Ⅱペテロ1:20)」と戒めています。
 大事なことは、素直に、神の語られた御言葉を毎日の生活の中に当てはめて歩むことなのです。

牧師コラム 『闇から光へ』 2018年6月10日

 牧師 高橋勝義     

 蛍光塗料は、光を蓄え、暗くなると、吸収した光を発散させて輝きます。
 しかし、その欠点は光を受けないと輝けないということです。
 イエス・キリストは、『からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)』と語りました。
 また、『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネ12:46)』とも語っています。
 イエス・キリストは、私たちが「闇の中にいる」と言っていますが、闇の中にいるとは、まことの神に背を向け、自分の考えこそ正しいと信じる自己中心の人生を送っていることです。これが、聖書の示す罪なのです。
 罪がもたらすものは、「憎しみ・恨み・妬み・偽り」などです。これらが、人間関係を壊し、自分自身も傷つけます。心が病めば、からだも病むのです。
 この闇の中から脱出する方法は、光であるイエス・キリストを信じることです。
 しかし、人は自分が闇の中にいることが分かりません。
 十字架は、私たちが闇の中にいることを教え、光に導きます。
 ところが、私たちの心の目が曇っていると、光を見ているにもかかわらず、光が全く見えないのです。
 イエス・キリストは、私たちを闇の中(罪の中)から救い出すためにこの世に来られ、十字架の上で、私たちのすべての罪の身代わりとなって死なれました。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じる者となって、あなたも、闇から光の中を歩む人生に変わる道を求めてはみませんか…。

牧師コラム 『あなたの主人は誰か』 2018年6月3日

 牧師 高橋勝義

 

 
 戦国時代は、男にとってロマンがありました。なぜなら、一国一城の主になれるチャンスがあったからです。それには、誰に仕えるかが、とても重要になって来ます。
 現代でも、良い上司に恵まれれば、出世の道も開かれていきます。
 ところで、イエス・キリストは、『わたしに味方しない者はわたしに敵対している(ルカ11:23)』と語りました。「わたし」とは、もちろん、イエス・キリストのことです。
 この意味を考える前に、まず、私たち自身の姿を知る必要があります。
 聖書は、まことの神から離れ、背を向けて歩んでいることを罪と言っています。
 この罪の歩みをしている私たちのことを、イエス・キリストは、『まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8:34)』と語っているのです。
 つまり、罪の奴隷になっているのが、私たちの姿なのです。
 罪の奴隷とは、「恨み・妬み・憎しみ・嫉妬・うそ・意地悪・怒り」などに支配されていることを指しています。現に、私たちは、自分の心をコントロール出来ず、その結果、人間関係が損なわれ苦しんでいます。
 この罪の奴隷状態から私たちを解放するために、神はイエス・キリストを十字架の上ですべての罪の身代わりに処罰されました。
 『イエス・キリストの味方になる』とは、この事を自分のこととして受け入れ、イエス・キリストを信じることです。
 これが、罪から解放されることになるからです。
 イエス・キリストは、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします(ヨハネ) 8:32』と約束しています。あなたも是非、イエス・キリストに味方する者となって、罪の奴隷から解放される人生に踏み出しましょう…。

牧師コラム 『隣人とは誰か』 2018年5月27日

牧師 栗原延元

 

 

 前回(415)に続いてカインと弟アベルの物語を学びます。
 カインは弟アベルのささげものが主の目に留められたことに、ひどく怒ります。その怒りを鎮めるように、主はカインに言われます。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記46,7)。しかし、カインは弟アベルを野に誘い出して殺してしまいます。そのカインに、主は「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問いますが、「知りません。私は弟の番人なのですか」とカインは主に答えるのです。
 カインは弟に、兄のプライドを傷つけられたのです。
 人はプライドの固まりなのでしょうか。カインは弟アベルと正しい兄弟関係を築くことはできなかったのです。
 人間関係を正しく築く要点は、まず、自分を愛するように、隣人を愛することであり、その愛は、救い主イエスを信じる信仰から生まれて来るのです。良き隣人となる道を歩む中に愛は有るのです。

牧師コラム 『あきらめるな』 2018年5月20日

 牧師 高橋勝義     

 電球を発明したトーマス・エジソンは、「人生に失敗した人の多くは、諦めた時に自分がどれほどの成功に近づいていたか気づかなかった人たちだ」と言っています。
 確かに、何事においても、中途半端は良くないということなのでしょう。
 イエス・キリストは、こんなたとえ話をされました。…真夜中、友人が旅の途中、自分の家に来たのに、もてなすものが何もないので、友にパンを貸してくれるようにお願いに行きました。友は、ぐっすり眠っているところを起こされたわけですから、断ります。しかし、しつこく頼み続けるなら、起きて必要なものを上げるでしょう。
 このたとえから、イエス・キリストは、諦めずに、しつこく(厚かましく・恥を恐れず)祈り続けることを私たちに教えているのです。
 誰に祈るのか。もちろん、すべてを御存知のまことの神に向かって祈るのです。
 イエス・キリストは『あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9,10)』と語るのです。これは約束のことばなのです。

 イエス・キリストのたとえ話に戻りますが、真夜中、友にパンを貸してくれるように頼みに行くわけですから、友との信頼関係が出来ていなければ、夜中に頼みに行くことなど到底出来ません。
 同様に、諦めずに祈り続けるためには、まことの神に対するあなたの揺るぎない信頼が問われてくるのです。

 ところで、あなたの信じている神は、本当に信頼できるお方ですか…。

牧師コラム 『まことの神の愛』 2018年5月13日

 牧師 高橋勝義     

 今日は「母の日」です。
 これはアメリカ南北戦争後、夫や子どもを戦場に送る事を拒否しようとおこった平和運動の「母の日宣言」が起源となっています。
 この運動を引き継いだアン・ジャービスの娘アンナが、母を偲び、また世の母親すべてを敬う日として、通っていた教会で1908年の5月第二日曜日に「母の日」の式典を行ないました。
 娘アンナはその式典で母の好きだった白いカ-ネ-ションを参列者に配り、やがてそれは全国的な記念日と広がり、カ-ネ-ションは「母の日」のシンボルになったのです。
 我が子を思う母の愛に感謝をする日が「母の日」です。

 ところで、聖書は、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ410)』と私たちに語りかけています。
 イエス・キリストご自身も『だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)』と語っています。
 私たちの心の中にある「憎しみ・恨み・妬み・嫉妬・怒りなど」が、人間関係を壊し、自分自身をも傷つけているのです。これらは、私たちを造られたまことの神から離れ、背を向けて歩んでいる罪によってもたらされているのです。
 今から2000年前、イエス・キリストはあなたを罪から救い出すために、あなたのすべての罪を身代わりに負い、ご自身のいのちを捨て、十字架の上で死なれたのです。
 それは、あなたを愛しているからです。
 いのちを捨てて下さったイエス・キリスの愛に感謝しましょう。

牧師コラム 『祈 り』 2018年5月6日

 牧師 高橋勝義     

 誰でも一度ならず祈った経験が、あるのではないでしょうか…。
 今日の聖書箇所は、イエス・キリストが弟子たちに祈りを教えられたところです。
 まず、最初に、最も重要なことは、祈り願うお方です。
 そのお方とは、私たちを造られたまことの神です。そのお方と共に歩む時、人は正しい歩みが出来るようになるのです。ですから、毎日の生活の中で、まことの神をほめたたえ、感謝と敬愛の心をもって祈るようにと教えられました。
 次に、日ごとの糧を毎日お与えくださいと、祈りなさいと教えられました。
 それは、まことの神が、私たちの日々の暮らしに必要なものを全て備えてくださるからです。毎日の食事を始め、日ごとの恵みは当たり前のことではなく、私たちを愛しておられる神がくださるものなのです。
 更に、自らの罪の悔い改めと、人を赦せるように、また試みから守られるように、祈りなさいと教えられました。
 なぜなら、まことの神の前に、自分の罪を認め、悔い改める時、神はイエス・キリストの十字架のゆえに、すべての罪を赦してくださるからです。
 神との関係が正されると、人間関係も回復するのです。自分の力では赦すことが出来なくても、心の中におられる聖霊の助けによって赦すことが出来るのです。
 人
間の親には限界がありますが、まことの神には限界がありません。
 その神を自分の父と呼び、祈るようにイエス・キリストは教えているのです。
 あなたも「天のお父さん!」と祈ってみませんか…。

牧師コラム 『あなたの隣人は誰か』 2018年4月22日

 牧師 高橋勝義     

  今日の聖書の箇所では律法の専門家が、「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」とイエスを試すために問いかけました。
 彼は、当然、その答えを知っていましたが、当時、神に仕える職にある人々は、律法(規則)を守ることに熱心で、あわれみや弱さを顧みる神の愛から逸脱していました。
 イエスは、「律法には何と書いてありますか。」と問い返し、「『あなたの神、主を愛しなさい』と『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」と答えた彼に、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と命じます。
 更に「私の隣人とは誰ですか」と尋ねる彼に、イエスは、たとえを話されたのです。

 《強盗に襲われ半殺し状態で倒れている人のそばを、祭司、レビ人、サマリヤ人の三人が通りかかります。神に仕える祭司とレビ人は、「身を汚してはならない」という律法を守り、見て見ぬふりをして反対側を通り過ぎて行ってしまいました。ところが、サマリア人は、かわいそうに思い、自分たちを嫌っているユダヤ人を助け、宿屋に連れて行き介抱したのです。翌日、宿屋の主人にお金を渡し『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言って出かけて行った、というのです。》

 イエスは、「この三人の中で誰が、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と聞きました。彼は、「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えたので、イエスは「あなたも行って、同じようにしなさい」と命じます。(ルカ10:2537)
 彼は、御言葉を知っているのに真摯に向き合わず、日常生活の中で実践しようとしませんでした。彼のこの傲慢を、イエス・キリストは、戒め、そして、分け隔てなく愛される「神の愛」を教えられたのです。
 ところで、あなたの隣人は誰ですか。

牧師コラム 『カインとアベル』 2018年4月15日

 牧師 栗原延元

 今日は創世記4章を学びます。
 この章は〈人はその妻エバを知った。彼女はみごもってカインを生み、「私は主によってひとりの男子を得た。」と言った。〉をアダムとエバの夫婦に子が与えられ、人間の世界が、夫婦、親子、兄弟関係へと拡大、多様化していく姿が描かれています。それに伴って、神のみことばに背を向けた罪人としての人間の問題も拡大し、複雑化して行きます。
 文明とは、前章で示された罪の厳粛な事実とそれに対する神のあわれみへの個人個人の対応の集積として性格づけられていく(舟喜信)のです。
 しかし、文明は「神のあわれみ」を前提としている以上、ひとたび人が犯した罪によってもはや何の可能性も残されていない暗黒の文明ではないのです。
 むしろ神が介入され、神が語られるところにいつも「光」を見ることが出来るのです。
 文明の暗黒の最たるものは、殺人です。しかも兄(カイン)が弟(アベル)を殺すという骨肉の争いが創世記4章に書かれているのです。
 そのキッカケが主へのささげ物をするカインとアベルの姿勢であったところに罪の恐ろしさが顔を出しているのです。詳しくは礼拝の中で語ります。

 

牧師コラム 『名が天に書き記される』 2018年4月8日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストによって、町に遣わされた七十二人の弟子たちは、帰って来るなり「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」(ルカ10:17)と喜びの報告をしました。
 ところが、イエスは、弟子たちに『霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』(ルカ10:20)と語ったのです。なぜ、このように語ったのでしょうか。
 聖書は、世の終わりについて『見よ、わたし(イエス・キリス)はすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。』(黙示22:12)と語っています。
 世の終わりの時には、まことの神を認めず、背を向けて歩んで来た【罪】に対するさばきがあるのです。それ故、イエス・キリストは、このさばきから私たちを救うために、その罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。
 すべての人を神のさばきから救うためです。
 さばきから救われるために必要なことは、自分の罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることです。
 その時、あなたの名は天に書き記されるのです。
 ですから、イエス・キリストは、あなたの名が天に書き記されることを人生の最優先にしなさいと語るのです。
 あなたにとって、人生の中で最優先しているものとは何でしょうか…。
 イエス・キリストは、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか』(マルコ8:36)とあなたに語りかけておられます。