牧師コラム 『モーセ物語~その1』 2019年6月30日

牧師 栗原延元

聖書巻頭の書である「創世記」に続いて、「出エジプト」記に入ります。
この書は、イスラエルの民が、エジプトから出て、神の約束の地カナンを目ざす旅を記しています。
イスラエルの民を、エジプトから救出した指導者が「モーセ」です。今日は、出エジプト記3章を学びます。この章には、モーセが神の召命を受ける場面が詳しく記されています。神とモーセの出合いの様子は、実に臨場感にあふれ、読む者をして、数千年の時空を超えて、私たちをその場へと誘います。その中で神は、「我は有りて在る者なり」(文語訳)と宣言します。
人間が存在するためには、多くの条件が揃っていなければなりません。水も食物も空気もなければ存在することはできません。神は無条件に存在するお方なのです。モーセが詠んだ詩があります。その詩の冒頭に〈主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことにとこしえからとこしえまであなたは神です〉(詩90:1~2)。まことに神は「有りて在る者」なのです。この神を信じていくことが、人生の揺るぎない土台となるのです。

牧師コラム 『ヨセフ物語(前半)』 2019年2月24日

牧師 栗原延元

 前回(1/27)は、「陽はまた昇る」と題して、ヤコブの人生を転回させる出来事を学びました (創世記32章のヤボクの渡し) 。その後でヤコブは生まれ変わり、「イスラエル」と名乗るのです。この名がその後の神の選民となります。
「アブラハム、イザク、ヤコブ」とイスラエルの族長の物語が、民族へ拡大する契機となったのがヨセフ物語です。ヨセフの生涯を貫く精神は「仕える」という事です。彼はまず、家族に仕えます。この中で、兄たちの反感を買って、エジプトに売られ、パロの廷臣、その侍従長ポティファルの奴隷として仕えますが、ぬれぎぬを着せられ、監獄に監禁され、囚人に仕えます。その後ヨセフは解放され、パロに仕え、エジプトの国難を救うようになり、最後は、自分を売った者たちに仕え、彼らの生命を救うことになるのです。
ヨセフは波瀾万丈の生涯を送ります。その生涯を父ヤコブは《彼の弓はたるむことなく》(創世記49:23)と語っています。「弓はたるむことなく」とは、弓は張っているが弦がゆるんでいたことがないの意味です。ヨセフは、どんな環境の中に置かれても、そこで神と人とに仕える道を選んだのでしょう。ヨセフ物語は実に爽やかです。その爽やかさを今日の礼拝で感じていただけますように。

牧師コラム 『救い主のしるし~飼葉おけ』 2018年12月23日

牧師 栗原延元

 今日の礼拝は、救い主イエス・キリストの誕生(降誕)を共にお祝いし、喜ぶときです。今年は西暦2018年です。これはイエス・キリストがお生まれになった年から数えています。西暦とは西洋のこよみですが、今や全世界で通用するこよみです。イエスの誕生によって、それ以前をB.C(Before Christ)、それ以降をA.D(Anno Domini)と歴史を2分しています。
 少しばかり、くどい説明になりましたが、もう少しご辛抱してお読み下さい。何故に、イエスが救い主(キリスト)なのかといいますと、「飼葉おけ」がそのしるしだからです。しるしとは、証拠ということです。
 イエス・キリストが救い主・キリストである正真正銘のしるしが、くどいようですが「飼葉おけ」なのです。
 クリスマスを詳しく伝えている「ルカの福音書」2章には三度くり返し「飼葉おけに寝ておられる」みどりごこそが救い主であると言います。
 まことの神は、最も低い姿をまとってこの世に来られたことを意味しています。〈心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。〉と山上の教えを説いたお方にふさわしいお生まれなのでしょう。

牧師コラム 『越えられない大きな淵』 2018年12月9日

牧師 高橋勝義

 金銭を好むパリサイ人に、イエス様はたとえ話しをされます。
『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前に、できものだらけの貧しいラザロという男がいた。しばらくして、ラザロは死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムの懐にいるラザロが見えたので、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください」と懇願した。しかし、アブラハムは「私たちとおまえたちの間には大きな淵があるので、渡ろうとしても渡れず、越えて来ることもできない」と告げる。金持ちは、残してきた兄弟五人を思い、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、「彼らに警告してください。」と懇願しますが、アブラハムは「彼らはモーセと預言者の言うことを聞くがよい。」と答えます。なおも、金持ちは「死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」と食い下がるのですが、アブラハムの答えは「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」でした。(ルカ16:1431)
 聖書は、「人間は一度死ぬここと死後さばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と語ります。
死後、私たちを待ち受ける絶望と苦しみをイエス・キリストは十字架の上で代わりに受けて下さいました。
 誰でも、イエス・キリストをからの救い主として信じる時、死からいのちに移され、絶望と苦しみから救われるのです。
 越えられない大きな淵を越えさせて下さるお方が、イエス・キリストなのです。

牧師コラム 『和解と分裂』 2018年8月12日

 牧師 高橋勝義  

 私たちは、私たち人間を造られた神から離れ、背を向け、歩んできました。
つまり親に逆らい、そこから出てきてしまい、自分の力で頑張っているのです。
 そこで、神はご自分との和解のために、神に逆らうすべての罪を、私たちに代わって、イエス・キリストに負わせ、十字架の上で死をもって処罰されたのです。

 イエス・キリストを信じるということは、私の罪のために死なれたことを認め、神に「ごめんなさい」と謝ることです。すると、神と私たちの間にあるわだかまり()のすべてが消え、神との和解が成立、平和が戻るのです。
 ところが、イエス・キリストは、『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。(ルカの福音書1251)』と語っています。

 イエス・キリストを救い主と信じるということは、神の力に頼って生きる生き方に方向転換した人、つまり、新しい生き方に変えられた人のことです。
しかし、信じない人は、自分の力で頑張る生き方のままです。
イエス・キリストは、この二つの生き方を分裂と表現したのです。

 この分裂は、争いや憎しみ、恨みなどによって生じたものではなく、信じた者の新しい生き方がよく分からないところから来る偏見なのです。
 イエスを信じる者が置かれる状況を、前もって語ることによって、まことの神に従って生きる覚悟をうながし、また私たちを愛しておられる神を人々に知らせなさいと語っているのです。