牧師コラム 『救い主のしるし~飼葉おけ』 2018年12月23日

牧師 栗原延元

 今日の礼拝は、救い主イエス・キリストの誕生(降誕)を共にお祝いし、喜ぶときです。今年は西暦2018年です。これはイエス・キリストがお生まれになった年から数えています。西暦とは西洋のこよみですが、今や全世界で通用するこよみです。イエスの誕生によって、それ以前をB.C(Before Christ)、それ以降をA.D(Anno Domini)と歴史を2分しています。
 少しばかり、くどい説明になりましたが、もう少しご辛抱してお読み下さい。何故に、イエスが救い主(キリスト)なのかといいますと、「飼葉おけ」がそのしるしだからです。しるしとは、証拠ということです。
 イエス・キリストが救い主・キリストである正真正銘のしるしが、くどいようですが「飼葉おけ」なのです。
 クリスマスを詳しく伝えている「ルカの福音書」2章には三度くり返し「飼葉おけに寝ておられる」みどりごこそが救い主であると言います。
 まことの神は、最も低い姿をまとってこの世に来られたことを意味しています。〈心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。〉と山上の教えを説いたお方にふさわしいお生まれなのでしょう。

牧師コラム 『越えられない大きな淵』 2018年12月9日

牧師 高橋勝義

 金銭を好むパリサイ人に、イエス様はたとえ話しをされます。
『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前に、できものだらけの貧しいラザロという男がいた。しばらくして、ラザロは死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムの懐にいるラザロが見えたので、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください」と懇願した。しかし、アブラハムは「私たちとおまえたちの間には大きな淵があるので、渡ろうとしても渡れず、越えて来ることもできない」と告げる。金持ちは、残してきた兄弟五人を思い、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、「彼らに警告してください。」と懇願しますが、アブラハムは「彼らはモーセと預言者の言うことを聞くがよい。」と答えます。なおも、金持ちは「死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」と食い下がるのですが、アブラハムの答えは「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」でした。(ルカ16:1431)
 聖書は、「人間は一度死ぬここと死後さばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と語ります。
 死後、私たちを待ち受ける絶望と苦しみをイエス・キリストは十字架の上で代わりに受けて下さいました。
 誰でも、イエス・キリストをからの救い主として信じる時、死からいのちに移され、絶望と苦しみから救われるのです。
 越えられない大きな淵を越えさせて下さるお方が、イエス・キリストなのです。

牧師コラム 『和解と分裂』 2018年8月12日

 牧師 高橋勝義     

 私たちは、私たち人間を造られた神から離れ、背を向け、歩んできました。
 つまり親に逆らい、そこから出てきてしまい、自分の力で頑張っているのです。
 そこで、神はご自分との和解のために、神に逆らうすべての罪を、私たちに代わって、イエス・キリストに負わせ、十字架の上で死をもって処罰されたのです。

 イエス・キリストを信じるということは、私の罪のために死なれたことを認め、神に「ごめんなさい」と謝ることです。すると、神と私たちの間にあるわだかまり()のすべてが消え、神との和解が成立、平和が戻るのです。
 ところが、イエス・キリストは、『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。(ルカの福音書1251)』と語っています。

 イエス・キリストを救い主と信じるということは、神の力に頼って生きる生き方に方向転換した人、つまり、新しい生き方に変えられた人のことです。
しかし、信じない人は、自分の力で頑張る生き方のままです。
イエス・キリストは、この二つの生き方を分裂と表現したのです。

 この分裂は、争いや憎しみ、恨みなどによって生じたものではなく、信じた者の新しい生き方がよく分からないところから来る偏見なのです。
 イエスを信じる者が置かれる状況を、前もって語ることによって、まことの神に従って生きる覚悟をうながし、また私たちを愛しておられる神を人々に知らせなさいと語っているのです。

牧師コラム 『さらにすぐれた故郷』 2018年6月24日

  牧師 栗原延元

 今回からしばらく、アブラハムについて学びます。
彼のことについては新約聖書のヘブル書11章8~19節にその信仰の生涯の要点がまとめられていますが、ひとことばで言うならば、アブラハムは「さらにすぐれた故郷」にあこがれてこの地上の生涯(波乱に満ち、次々に起こる困難に耐え)を送った人でした。
 アブラハムは75歳のとき、天の神の声に聞き従い、故郷を出立します。ヘブル書の著者は、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と言います。一見無謀な行動のように見えますが、このアブラハムの心の中には、神が設計し建設された天の都を目ざす思いが芽生えていたのです。
 ですから、どこに行くのかを知らなかったと言われていますが、アブラハムは、どこに行ったとしても、何をなすべきなのかということを知っていました。それは、私どもは、地上では旅人であり寄留者であるということです。
 私どものまことの故郷は天にあるのですから、天に国籍を持つ者として、この地上では、慎み深く謙虚に歩まなければなりません。
 地上に宝をたくわえる生活ではなく、天に宝を積む者となることを、聖書から学んでいきます。

牧師コラム 『必要なことは一つだけ』 2018年4月29日

 牧師 高橋勝義    

 マルタはイエス様を家に迎えて、もてなしのために忙しく動き回っていました。
 しかし、妹のマリアはイエス様の足元に座り、主の言葉を聞いていました。
 マルタは、妹のこの態度にしびれを切らし「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。(ルカ10:40)」とお願いしたのです。
 イエス様は、『必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。(ルカ10:42)』と語ったのです。
 私たちは、事の大小にかかわらず、日々、決断しながら歩んでいます。
 時には、自分の手に負えないような大きな問題に直面することもあります。
 問題を解決しようと動き回れば回るほど、空回りし、冷静さを欠き、訳が分からなくなってしまいます。このような時、聖書は、『イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)』と語っています。
 まことの神の前に静まりなさいと、聖書が語るのは、神の守りを思い起こし、神に信頼することこそが、問題を解決する力であることを教えているのです。
マリアはイエス様の御言葉を聞き、心にとどめることを最優先にしたのです。
 ですから、主は、『必要なことは一つだけです』と語ったのです。
 聖書は、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる(マタイ4:4)』とあなたに語ります。

 あなたは、何を最優先にしますか…。